晴海団地が出来た時、そのいちばん端に小学校も幼稚園も作られたので、子どもたちは送り迎えをしなくても一人で歩いて通うことが出来ました。

仕事を持つ親、特に母親にとってはそれはとても有難かったです。
幸い夫も私も健康で、子どもたちも怪我は時たましましたが、病気もせず順調に育ちました。長女は幼い時から活発で、おとなしく弱気な弟をかばっては頼もしいお姉ちゃんぶりを発揮していました。
長女が外へ出て行くと「豆台風が来た!」と言って、広げていたママゴト道具をゴザごとまとめて逃げる子どもたちがいてびっくりしたことがあります。

相変わらず締め切りに追われ忙しい毎日でしたが、夏休みの楽しみが出来たのでそれが励みとなって二人で頑張りました。
4畳半の和室を1畳半と3畳に分けて仕切りの壁を作り、3畳を寝室に、一畳半の方は壁に向かって細長い板を付けて机にし、夫と私と並んで仕事をしました。

一仕事終えて私たちがその狭い部屋から出て来ると、待っていたように幼い息子が父親の脛にかじりつきます。夫が足を振り回すと足首にまたがったままの息子は大喜び。
私の記憶に残る唯一の父と息子の楽し気な光景です。

時には子どもたちを車に乗せて銀座の「天龍」へ特大餃子を食べに行くのも楽しみの一つでした。当時元横綱の天龍氏はいつも入り口の椅子に座っておられました。

後で書くことになると思いますが、その何年か後の父子の険悪な時期を経た後、息子はこの父親に可愛がられた頃の記憶を全く失くしているそうです。
晴海で育ったのは7歳まででしたが、それが全て消えているのはそれを消してしまうほどの辛い記憶が上塗りをしてしまったということなのでしょう。

さて、その頃私は何年かぶりの妊娠に気付きました。
ここにもう一人家族が増えたらとてもここでは狭すぎると思っていた時、練馬区の石神井に同じ住宅公団の分譲団地が出来たことを知りました。
抽選ですが賃貸団地の入居者は優先されると聞きさっそく申し込みました。

5階建てで3LDK、エレベーターはありません。
1階と5階は倍率が低くなると聞いて、どうしても入居したい私たちは5階に申し込み、幸い抽選に当たって引っ越すことになりました。