夫も私も東京生まれで、夏休みになっても子どもたちを連れて行ってやれる「故郷の田舎」がない私たちにとって、北軽井沢の山荘はまさにその「故郷」となりました。



1学期の終業式が終わるとすぐ車に荷物を積み込み、翌日の明け方の3時には出発しました。
まだ関越道も上信越道も出来ていない頃ですから、18号線の横川からは旧の碓氷峠を越えます。
途中高崎の烏川のそばを走る時、いつもそこの聖石橋(ひじりいしばし)の下に逃げた空襲の夜のことを思い出しました。そして平和な世になって、こうして家族でドライブ出来る有難さを改めて感じるのでした。

何百とある碓氷峠のカーブを越えて軽井沢駅が見えて来る頃には夜が白々と明けて来て、心の中はわくわく感でいっぱいになります。
家族全員が同じ喜びに浸れる貴重な体験でした。

夫と私はそこへ行っても仕事に追われる日々ではありましたが、それでも東京の狭い団地にいるよりは伸び伸びと出来、豊かな自然の中での非日常を楽しみながら仕事が出来て幸せでした。
人との付き合いはあまり得意でない夫もここでは泊まりに来る人達には心を開き、日ごろ見せない笑顔を見せていました。

その頃、実家では母が大きな決断を迫られていました。
実家が営んでいたパンとお菓子の店は表通りに並ぶ商店や会社などの一角にありましたが、裏の細い路地には長屋が何軒か軒を連ねていました。その1ブロックが全部同じ地主さんが所有しており、どの家も借家です。
それをその地主さんが売りたいと言って来たのです。
それも全部まとめて売りたいとのこと。

住人の中には安い家賃でいた方がいいから買うつもりはないと言う人も多く、意見がまとまりません。
母はここは銀座にも近く良い場所だから、今安く売ると言われている時に買っておいた方がきっと将来のためになると思い、何人かの同じ考えの人たちと一緒に近所を説得して歩いたそうです。

そしてようやく全員が買うということに意見がまとまり、母も恐らく借金をしたと思いますが一件落着しました。
この決断がその後何十年もの後、バブルの時代が来た時に母を助け、ひいては一人っ子である私をも助けることになったのです。