翌年の夏に念願のお風呂とトイレのある小さな家が出来上がりました。



8畳の広さのLDKに4畳半の和室、それに汽車式和式トイレとタイル張りの浴室。

団地のお風呂があまりにも狭いので、子どもと一緒に入れるように洗い場を広くし、浴槽も広く、全体で3畳分くらいの広さ、と頼んだはずなのに、行って見たら浴槽は大人が一人しゃがんで入れるほどしかありません。


田舎の職人さんなので、広い浴槽は水道代も燃料代もかかって勿体ないと思ったからと言います。

あまりにも予想と違ってがっかりし、庭にしゃがみこんで泣いてしまったことを覚えています。

ちっちゃな浴槽に不釣り合いな広い洗い場。何ともバランスの悪い風呂場でした。



私のあまりの落胆ぶりを見て職人さんが「こわして作り直しましょうか?」と言ったのですが、あと数枚タイルを貼り終えれば家に帰れる、と言うのを聞いて、泊まり込みで仕事をしていた職人さんにそれは頼めず涙を飲んだのでした。

ほかはどこも気に入って、特にLDKを吹き抜けにしたことは誰にも評判がよく、2階の6畳の和室から窓越しに階下の部屋が見下ろせるのは我が家の子どもたちを大いに喜ばせました。
これはその後泊まりに来た友人の子どもたちにも大好評で、わざわざ2階へ行っては階下に何かを垂らしてみたり、落としてみたりしては喜んでいました。

それで屋根が自然にへの字の形になったわけです。
バンガローと並ぶ形で建てたので、その後バンガローとの間には屋根を付け、下をコンクリートで固めて行き来出来るようにしました。
この離れも子どもたちには大好評で、その後男の子ばかりそこに8人泊まって大騒ぎをしたこともありました。(私の友人は子どもは男の子2人の人ばかりでした)

その家が完成したのは1964年。東京オリンピックの年です。
長女は小学校の1年生。長男は幼稚園年中組。
東京では相変わらず寝る間もないほどの締め切りに追われる忙しい生活でしたが、夏休みの期間だけはその高原の緑と清涼な風を味わえるので、それだけを楽しみに毎日を頑張りました。

私がいちばん嬉しかったのは、洗濯物を広々と干せることでした。
特に手すりで汚れないようにと四つ折りにしなければ干せないシーツを広げて干せること。テーブルクロスのパンくずをパッパッと庭に捨てられることでした。
団地の2階の窓からは絶対に出来ないことだったからです。
庭があることがどれだけ自由で嬉しいことか、それだけでどんな辛いことも乗り越えられたのでした。

60年前に建てたその「への字の家」は今でも存在します。
下の写真の向かって左の部分がそれで、バンガローがあった所に建っている右の建物は離婚した後に再婚した夫が増築した部分。
その夫も奥さんも今はもう亡くなりました。
それを次女が相続して中を改装し、今は「MANAHOUSE」と名付けてリトリートハウス兼貸別荘として使っています。

バンガローは今でも健在。庭の隅に移されてこの場所の象徴となっています。

当時ひょろひょろだった木々は太く大きくなり、うっそうとして浅間山はとうに見えなくなりました。