夫は昼間はアメリカ大使館USIS(情報部)に勤めながら、テレビドラマのセリフの翻訳という内職を続け、家にも持ち帰って私との共働きでしたが、突然大使館での仕事の内容が変わってものすごく忙しくなりました。
それまではかなりヒマだったようで昼間から内職に励むことも出来たらしいのですが、それが難しくなり、どちらを本業にするかを決めなくてはならなくなりました。
大使館での仕事は1日中ヘッドホンを付けて、四六時中流れて来る情報をどんどん日本語にして行くという内容に変わったのだそうです。
英語なら英文タイプをパチパチ打てば済みますが、まだパソコンはおろかワープロもなかった時代、手書きでそれをこなすのは大変です。神経も使うし、ストレス(も当時はなかった言葉です)も半端ではありません。
そこで二人で話し合い、面白くなり始めていたテレビの仕事の方を本業にすることにしました。長女が3歳、長男はやっと1歳になった頃だったと思います。
毎日夫が家にいてくれるというのは頼もしく、嬉しいと思ったまだまだ世間知らずの私でした。
「亭主達者で留守がいい」などと言う言葉はまだ知らなかった純情な私だったのです。
私の実家がサラリーマン家庭だったら決して思わなかったことでしょうが、幸か不幸か不安定経済が当たり前の家庭だったので、何の不安もなく夫の退職に賛成してしまったのです。
さあ、それからが大変でした。
「自由業」という何の保証もない暮らしに変わったわけですから、夫はどんどん仕事をもらって来るようになりました。
まだ幼い二人の世話をしながら私の仕事も倍増しました。
週1回のレギュラー番組を3つ抱えると1日おきに締め切りが来るわけです。
当時は日本テレビの仕事が中心でしたから、1本仕上げて夫が麹町の日テレまで届けに行っている間に急いで家事と子どもの世話をし、夫が帰って来るとすぐ次の仕事にかかります。あるいはその間に次の仕事にかかっていたこともありました。
締め切りに間に合いそうになければ眠るわけに行きません。
徹夜はしょっ中でした。寝巻に着替えたり布団に寝たりすると寝過ごすので、2,3時間の仮眠なら子どもの小さな布団に横になるのが普通でした。
でも仕上げた時の達成感は悪いものではなかったですし、2人ともまだ20代でしたから頑張れたのだと思います。やっただけの収入にはなりましたし。
セリフの長さの調節にはテープレコーダーを使いますが、当時のは大きな箱型のオープンリール式。それをガチャガチャ往復させながらセリフをしゃべって長さを合わせる作業をシンクロというのをその頃知りました。シンクロナイズドスイミングと同様「同調させる」という意味で使われていた言葉です。
ある時、子どものどちらかの誕生日祝いに私の両親と祖母、夫の母も加わったことがありました。その時の様子を記録しようと、ずっとテープを回し放しにしておきました。
それを後日再生してみたら、長女がマイクを自分で持ってしゃべった言葉が録音されていました。
「お父さんとお母さんは、テープレコーダーを止めて、子どもたちと遊びましょう!!」と大きな声を張り上げていたのです。
大人たちはそれに気づかずガヤガヤとしゃべっていて、時に笑い声が混じり、長男がそばで「パッパ、ママッ!」などと言っています。
そうでしょうね。毎日パパもママも一日中そばにいるのに、こっちを向いてくれない、遊んでくれない、と思っていたのでしょう。
後でテープを再生してこの声を聴き、ああ、もっと子どもと遊んでやらなければ、と思ったものでしたが、目の前に次々やって来る締め切りに追われる毎日が続きました。
私もだんだん辛くなり、夫に言いました。
「あなたが一人では大変、という分量だけ受けて来てください。それを二人でやればかなりゆとりが出来るでしょう。それでも十分生活は出来ますから」と。
しかし夫は耳を貸さず、3人でも大変というくらいの分量を引き受けて来るのです。
徹夜が多くなり、イライラがつのります。だんだん喧嘩も多くなりました。
どうしてそこまで頑張るのか。
それには理由があったのです。