長女は健康に育ち、昼寝もたっぷり4時間はしてくれるので仕事がはかどりました。
世の中はまさに高度成長期。我が家だけでなく、みんなが豊かな生活を夢見てがむしゃらに働いていた時代です。モーレツ社員とか企業戦士などという言葉も生まれていました。
3種の神器の次の憧れは先ず車でした。
我が家もご多分に漏れずオースチンの中古車を夫がどこからか見つけて来ました。やがて来るマイカー時代のハシリです。
その頃に第2子の妊娠がわかりました。
予定日は昭和35年(1960年)3月30日。
微妙な時間です。もし出産が4日遅れたら小学校入学が1年遅れることになるわけでヒヤヒヤものでした。その1ケ月前の2月23日に天皇家に男の子が生まれました。
前の年、国を挙げての大騒ぎとなった正田美智子さんと皇太子殿下とのご成婚による初めての赤ちゃんです。
その方が現在の天皇陛下なのですから、思えば大昔の話です。
我が家は最初が女の子でしたから、このニュースを聞いて我が家も男の子だといいな、と思い願ったらその通りになって、予定日よりはずっと早く3月19日に生まれました。
長女の時は先に破水が起き、陣痛が来るまでに2日近くかかって羊水をせき止める処置がとても苦しかったのに、今回は逆にすでに赤ん坊の頭が見えているのに破水が起きず、人工的に羊膜を切る処置をしたとのこと。
(7年後に第3子となる次女を出産するのですが、その時はやはり先に破水が突然起きたので、女児と男児では私の場合出産形態が違うことを知らされました)
長女がまだ2歳半、それに生まれたての赤ん坊を育てながら締め切りのある仕事をするのは本当に大変でしたが、若い二人は頑張りました。
実家が近く、私の両親もまだ40代と50代でしたし、父方の祖母も元気だったのでよく手助けに来てくれたり、私の方も子どもを預けに行ったりして助けてもらいました。
その頃はまだバスに車掌さんがいましたから、3歳くらいになった長女を一人でバスに乗せると車掌さんに「鉄砲洲」で降ろしてください、と頼み、母に「今乗せたよ」と電話すると母が頃合いを見てバス停まで迎えに行く、帰りも同様に3歳の子が一人でバスで帰って来る、ということを何度かしました。
まだまだ平和だった時代です。ワンマンカーの現代では想像もつかないことでしょうね。
団地のすぐ近くに自動車教習所があったので、長女を実家へ行かせ、赤ん坊が昼寝している間に走って教習所へ通いました。待合室のテレビで社会党の浅沼稲次郎氏が講演中に少年から刃物で刺されるところを見たのもその頃でした。
ある日走って家に帰ると、まだ寝がえりを打てないはずの赤ん坊が玄関でギャーギャー大泣きしていたことがあります。いつの間にか一人で寝がえりを打って玄関まで這って来ていたのです。偉い偉い、と抱き上げて頬ずりしてやりました。