長女が生まれて半年くらい経った頃でしょうか、機械を使って毛糸を編む「機械編み」が流行り始め、団地の集会所で講習会が開かれました。


講習会自体は無料ですが、要は機械を売るのが目的です。
手で編むより早くきれいに編めて、いろいろな模様編みも簡単に出来るということで、私もさっそく購入しました。

細長い機械で、それをテーブルの上に置き、ずらりと並んでいる針に毛糸をひっかけて、左から右へ四角い金具をジャーッと引っ張ると1段編めているという具合。
毛糸の色を変えたり、毛糸のかけ方を変えると何通りもの編み方が出来て、しかも網目がそろってきれいに出来るので、私はかなり長いことこの機械編みに夢中になり、子どもの物をいくつも作りました。

既製服などまだ売ってなかった時代なので、ミシンも使って娘の物や自分の服などよく作りましたし、「暮らしの手帖」を定期購読して、料理にも精を出しました。
思えばこの頃が長い人生の間での唯一貴重な専業主婦の時期だったと思います。

夫の勤めるアメリカ大使館は日本の会社のようなボーナスはありませんでしたが、年収を12等分した毎月のお給料はかなり良かったですし、何よりも有難いのが日本とアメリカの休日全部がお休みで、もちろん土曜日は休みの5日制。
まだ日本ではどこも土曜日はまだ半日勤務の時代でした。

そんなある日、夫が同僚から手伝ってほしいと頼まれたアルバイトの仕事を持ち帰って来ました。
当時はテレビ局はどこも開局したばかりで、番組の制作が間に合いません。
その穴埋めのためにアメリカから大量のTVドラマやバラエティ番組を輸入して日本語版を作り放送していました。
「家庭用のテレビ受像機もぼつぼつ普及し始め、「アイラブルーシー」「「パパはなんでも知っている」などの番組が評判になった頃のことです。

夫が持ち帰って来た仕事もティーンエイジャーの男の子と女の子が主人公の30分ドラマでした。その英語の台本を日本語に訳し、更に口の動きに合うようにセリフの長さを調節し新しいた台本を作る仕事です。

夫の仕事はかなりヒマだったようで、昼間職場で堂々とそのアルバイトをしていたようですが、締め切りに間に合いそうもなくなるとうちへ持ち帰って来て夕食後にやっていました。



ある日眠気に勝てなくて、やりかけの仕事をそのままにして夫が寝てしまったことがありました。のぞいて見ると私にも出来そうな内容だったので、こっそり続きを訳しておきました。


明け方目を覚ました夫は驚いたようでしたが、これが私にとっては地獄への入り口となったのでした。

でもその時は自分の好きな英語で夫の手伝いが出来るという嬉しさで幸せを感じていた純真な若妻でした。