私の結婚が決まった時、父は昔からのテイラーを呼んで結婚式に着る新しいモーニングを注文しました。確か真っ黒ではなく濃い紫が混じった黒の生地だった思います。


今でも覚えていますが、そのテーラーの方は川波さんと言って、眼鏡をかけた男の人が自分の身長くらいもある鋏を手に立っているマンガチックな絵にKAWANAMIと縫い取りのあるラベルが、父の服のどれにも付いていました。

でもそれらは全て空襲で焼けてしまったので、私の結婚式を機会に新調することにしたのでしょう。
ところがそれも出来上がって来ているのに、なぜか式の1週間ほど前に突然父は式には出ない、と言い出しました。理由は分かりません。急に機嫌が悪くなったのです。

私は酔っ払いの父が大嫌いで、早く家から出たい思いで結婚を決めたくらいですから父が式に出ないならそれでもかまわない、と冷ややかな気持ちでいました。
それでも今は別々に暮らしている新郎側の両親が、しかも父親の方は病身を押して出てくれるというのに、と母や祖母が説得したのか、当日になるとちゃんと出席してくれました。

私たちは披露宴が終わるとそのまま新婚旅行に行ってしまったのでその後のことは知りませんでしたが、後日母から聞いた話では、父は家に戻って来てからは一言もしゃべらず、夜になっても部屋に電気がつかないので母が行ってみると、父は真っ暗な部屋の中で、私が使っていた枕を抱きしめて一人で泣いていたそうです。



そしてその日を境にそれまで気まぐれ程度にしか出なかったお店に毎日出るようになり、相変わらずお酒はやめませんが、以前のように嫌味を言ったり大声を出すようなことはしなくなったそうです。

私を嫁がせたら父と別れようと考えていた母も、父が変わればその必要もなくなるわけで、結局そのまま最後まで添い遂げたのでした。
私がいなくなったことで父の気が弱くなり、母が主導権を取る形になってうまくバランスが取れるようになったのでしょう。

数年後、大手のパンの会社が次々個人のお店に自社製品を卸す時代に入り、うちのような店は、その方が人件費もかからずラクが出来るとばかり、その傘下に入って行きました。
うちの「ふじや」もその1軒で、朝早くトラックで卸して行く大手メーカーのパンを売るようになって職人さんはいなくなり、パン焼き窯も姿を消しました。両親も歳を取り、それが自然の流れだったのでしょう。

そしてその後21世紀に入る頃からまた個人のパン屋が復活して、大量生産のパンより手作りのパンが喜ばれる時代になったのですから、まさに歴史は繰り返すということですね。