1957年、今から67年前の晴海など今では全く想像もつかないと思いますが、
建物は晴海団地のほかは自動車教習所と遠くのはずれに、国際見本市用の大きなドーム型の建物があるだけであとは一面の草原でした。
東京の人でも月島までは知っていても、その先にある埋め立て地のことなどほとんど知らなかったと思います。
団地は1号棟から10号棟までが賃貸住宅で、11~14号棟が分譲用でした。数年後に初めてエレベーターのある10階建ての15号棟が建てられ、当時話題となったものです。
1号棟の1階は診療所とマーケットになっていました。
まだスーパーが出現するずっと前ですから、マーケットと言っても米屋、魚屋、八百屋、肉屋など個別のお店が十数軒並んでいました。
部屋の間取りはどこも同じ2DK。
スチール製のドアを開けると、靴が4足くらいでいっぱいになる狭いタタキがあり、上がった所が2畳くらいの板の間。そこに作り付けの長方形の食卓があり、すぐ右にトイレ、その横が風呂場。
小判型の木の浴槽の下にはガスのバーナー。煙突が外のベランダに出ています。
洗い場は一人座ればいっぱいになるコンクリートのタタキで、そこに木製のスノコが敷いてありました。
それでも当時ガス風呂と水洗トイレがついているだけで「高級」と言われたものでした。
浴室の横にあるドアを開けるとベランダですが、広さは畳1枚分くらい。お隣も同じで、間は腰の高さに金網が張ってありました。
キッチンは食卓の横に狭い調理台と流し、窓際にガスコンロ一つが置けるだけのスペースがありました。
部屋は縦に和室の6畳と4畳半が並び、ふすまで仕切られています。
押し入れは4畳半の方に1間のがあり、6畳側には3尺の開き戸の物入れがありました。
我が家は6-201号。2階なのでエレベーターがなくても大丈夫。
それ以上に板橋の暮らしから思えば天国のような住まいでした。
向かいの7号棟にエッセイストの増田れい子さんが住んでいらして、後に「暮らしの手帳」に「我が家は潜水艦」という文章を書かれたことがあります。
図解入りで、「食卓に座ると背中がトイレのドアだった」とあったのをよく覚えています。
トイレはいわゆる「汽車式」。1段上がってしゃがむ式のです。
水洗も上に水槽があって、鎖を引っ張ると水が流れるようになっていました。
ここに1967年までの10年間住んだわけですが、その間に長女と長男が生まれました。
建物は晴海団地のほかは自動車教習所と遠くのはずれに、国際見本市用の大きなドーム型の建物があるだけであとは一面の草原でした。
東京の人でも月島までは知っていても、その先にある埋め立て地のことなどほとんど知らなかったと思います。
団地は1号棟から10号棟までが賃貸住宅で、11~14号棟が分譲用でした。数年後に初めてエレベーターのある10階建ての15号棟が建てられ、当時話題となったものです。
1号棟の1階は診療所とマーケットになっていました。
まだスーパーが出現するずっと前ですから、マーケットと言っても米屋、魚屋、八百屋、肉屋など個別のお店が十数軒並んでいました。
部屋の間取りはどこも同じ2DK。
スチール製のドアを開けると、靴が4足くらいでいっぱいになる狭いタタキがあり、上がった所が2畳くらいの板の間。そこに作り付けの長方形の食卓があり、すぐ右にトイレ、その横が風呂場。
小判型の木の浴槽の下にはガスのバーナー。煙突が外のベランダに出ています。
洗い場は一人座ればいっぱいになるコンクリートのタタキで、そこに木製のスノコが敷いてありました。
それでも当時ガス風呂と水洗トイレがついているだけで「高級」と言われたものでした。
浴室の横にあるドアを開けるとベランダですが、広さは畳1枚分くらい。お隣も同じで、間は腰の高さに金網が張ってありました。
キッチンは食卓の横に狭い調理台と流し、窓際にガスコンロ一つが置けるだけのスペースがありました。
部屋は縦に和室の6畳と4畳半が並び、ふすまで仕切られています。
押し入れは4畳半の方に1間のがあり、6畳側には3尺の開き戸の物入れがありました。
我が家は6-201号。2階なのでエレベーターがなくても大丈夫。
それ以上に板橋の暮らしから思えば天国のような住まいでした。
向かいの7号棟にエッセイストの増田れい子さんが住んでいらして、後に「暮らしの手帳」に「我が家は潜水艦」という文章を書かれたことがあります。
図解入りで、「食卓に座ると背中がトイレのドアだった」とあったのをよく覚えています。
トイレはいわゆる「汽車式」。1段上がってしゃがむ式のです。
水洗も上に水槽があって、鎖を引っ張ると水が流れるようになっていました。
ここに1967年までの10年間住んだわけですが、その間に長女と長男が生まれました。