板橋での暮らしは大家さんである下駄屋さんの一部をお借りした間借りでしたからキッチンはなく、裏のガラス戸を開けると外の軒下に流しがあるだけ。


洗濯もそこの水道を使ってしていました。(もちろんタライです)

ガスもなく、2階へ上がる階段の下が3角形に空いているのでそこに石油コンロを置いて煮炊きをしていました。
その頃東芝から電気炊飯器が初めて売り出され、それだけが最新式の台所道具。
冷蔵庫は氷を入れる木製の小型のものがあったように思いますが、よく覚えていません。
お風呂は2,3軒先の細い道を左へ曲がった所にある銭湯へ行っていました。
今その道が環七通りとなり、立派な立体交差が出来ているのでびっくりです。

夫は毎日バスと地下鉄で虎ノ門まで出勤し、帰って来て夕食を済ますと昼間私がお客様から預かっって現像しておいたフィルムを持って、赤羽の米軍キャンプへ自転車で出かけます。


シャワーもそこで浴び、10時に仕事を終えるとそこでプリントした写真を持って帰って来ます。私はそれをきれいに切りそろえ袋に入れて受け取りに来たお客様に渡し、代金をいただきます。
そんな暮らしにすっかり慣れた翌年の春、初めての妊娠が分かりました。

ここで子どもを育てるのは無理。何とかしなければ、と思っている所に朗報が飛び込んで来ました。
当時の住宅難はまだまだひどいものだったので、昭和30年(1955年)に日本住宅公団と言う組織が出来て、東京の郊外や近県のあちこちに鉄筋コンクリート造りの「団地」を作り始めていました。
ダイニングキッチンつまりDKという新語が生まれて、6畳と4畳半にベランダがついた2DKがいくつも連なるアパートの群れです。エレベーターはないので、ほとんどが4階建てでした。
お風呂と水洗トイレがあるというので、みんなの憧れでした。

それが初めて都心部に出来ることになったのです。
場所は中央区の晴海。

郊外に比べて土地代が高い場所なので5階建て。
DKもずっと狭く、ベランダも半分くらいしかありません。
それなのに家賃はずば抜けて高く1か月7000円。私の初任給と同じです。
(近県の2DKは3000円~4000円だった記憶があります)

そして入居資格は月収がその5倍以上あること、いうのが条件でした。
つまり35000円必要ということは、現在の物価で換算すると70万円くらいになりますから普通の24歳のサラリーマンでは到底無理です。
でも今、都心部で2DKのマンションが14万円ならむしろ安いくらい?だと思うので、感覚的にはかなりのズレがあります。

ともかくそこに申し込み、幸運にもすごい倍率の中当選し、引っ越しが決まりました。昭和32年(1957年)の5月のことでした。