昭和31年(1956年)婚約者は大学を卒業し、アルバイト先だったアメリカ大使館情報部(USIS)に就職が決まり、勤務先も虎ノ門のアメリカ大使館アネックス(別館)になりました。
私は就職して1年、英文タイプを打つスピードも速くなり、仕事も面白くなって来ていましたが、彼の「結婚後は家庭に入ってほしい」という言葉にあっさりと辞めてしまいました。
一人っ子だったので、結婚して子供を持つのが夢でしたし、新居となる板橋区から青山への通勤も大変と思ったからです。
母の「早く結婚してほしい」気持ちにも応えようとも思っていました。
結婚式はその年の5月、銀座教会で行われました。
白いサテンとレースのウエディングドレスは銀座4丁目角の「三愛」で作ってもらったもの。手に持つブーケは式の前日に有楽町のガード下の花屋さんへ自分で買いに行きました。
式の後の披露宴は教会の会議室。すぐ近くの不二家から取り寄せたサンドイッチや飲み物、それにうちの職人さんが焼いてくれた3段重ねのウエディングケーキのささやかなものでした。
その後は服を着替えてそのまま新婚旅行に出発。
行く先は伊豆山と湯ヶ島の2泊3日です。
昔は熱海が多かったのですが、当時はそこを少し外した所が人気でした。
その後しばらくすると宮崎の青島海岸がブームとなり、やがてハワイが定番という時代になって行きます。
新婚旅行から真っ直ぐ帰ったのは板橋区大和町の、夫が前から住んでいる間借り先。
そこは中仙道に面した間口1間半、奥行き2間半の小さなお店でした。彼はそこで写真屋を営んでいました。
現代はとっくになくなったいわゆるDPEの店です。
「ヒロセフォト」という看板がかかっていました。
DPEとはDeveropment(現像)Print(焼き付け)Enlarge(引き伸ばし)の省略で、今では完全に死語ですね。
半畳の土間の奥に2畳の畳の部屋と畳1枚分の板の間。
そこのガラス戸を開けて裏庭へ出られるようになっていました。
2畳の部屋の横と店の土間をつないで縦に1畳半ある土間は、黒いカーテンで仕切られた暗室です。
結婚することになり、店の真上にある4畳半も借りることになって、そこで私たちの新婚生活が始まりました。
2階へ上る階段へ行くには一旦大家さんの廊下に入ることになり、トイレもその突き当りのを借りていました。
彼は中学生の頃から休みの日には、同じアメリカ映画を1日中繰り返し見て、当時売っていた英和対訳のセリフが書いてあるプログラムを暗記しては英語の勉強をし、高校は夜間部に入学して進駐軍のキャンプに住み込みで働いていました。
ですから高校を卒業する頃には完全に英語をマスターしていましたが、大学卒の資格があった方が有利だろうと第二部に入学、途中から昼間部に転部していたのです。
そして大学時代は自宅でDPE屋を始め、大学の友人と時間を合わせてどちらかが店にいるようにし、夜は自転車で赤羽の進駐軍キャンプでアルバイトをしていました。
キャンプでの仕事はHobby Shopという建物の管理人&技術指導者。
一度私も行ったことがありますが、学校の体育館ほどもある大きな建物で、そこにはありとあらゆるHobby(趣味・道楽)に関する機械や道具、器具、材料、薬品、塗料などが豊富に揃えてあり、兵隊たちが休みの時にそこで自分の好きなことを何でも自由に、無料で出来るようになっていました。
私の夫はとても器用な人で、大工仕事も電気関係にも詳しく、何でも出来る人だったので、兵隊たちの手助けをしたり、技術指導などもしていたのです。
私にも自分で組み立てたラジオや牛皮に彫刻を施したハンドバッグなどをプレゼントしてくれていました。
つまり、お客さんが昼間DPEを頼みに来たフィルムを、夜そこへ持って行っては仕事の合間にそこにある材料で現像をし、焼き付けもして家に持ち帰って来るのです。家では乾燥させて縁をきれいに揃えるだけで完成ですから、全く元手要らずの美味しい商売というわけです。
必然的に新妻は店番をすることになり、次第に現像の技術を覚え、夫がアメリカ大使館から帰って来るまでにフィルムを乾かしておくようになりました。
夫の働きぶりには感心しましたが、それ以上に驚いたのはアメリカ軍の兵隊に対するあり方です。日本の軍隊で、休みに趣味のことでもしようものなら「貴様、たるんどる!」と怒鳴られて何発も殴られるのが関の山でしょう。
日本の軍部は兵卒など消耗品としてしか見ていなかったでしょうから。
私は就職して1年、英文タイプを打つスピードも速くなり、仕事も面白くなって来ていましたが、彼の「結婚後は家庭に入ってほしい」という言葉にあっさりと辞めてしまいました。
一人っ子だったので、結婚して子供を持つのが夢でしたし、新居となる板橋区から青山への通勤も大変と思ったからです。
母の「早く結婚してほしい」気持ちにも応えようとも思っていました。
結婚式はその年の5月、銀座教会で行われました。
白いサテンとレースのウエディングドレスは銀座4丁目角の「三愛」で作ってもらったもの。手に持つブーケは式の前日に有楽町のガード下の花屋さんへ自分で買いに行きました。
式の後の披露宴は教会の会議室。すぐ近くの不二家から取り寄せたサンドイッチや飲み物、それにうちの職人さんが焼いてくれた3段重ねのウエディングケーキのささやかなものでした。
その後は服を着替えてそのまま新婚旅行に出発。
行く先は伊豆山と湯ヶ島の2泊3日です。
昔は熱海が多かったのですが、当時はそこを少し外した所が人気でした。
その後しばらくすると宮崎の青島海岸がブームとなり、やがてハワイが定番という時代になって行きます。
新婚旅行から真っ直ぐ帰ったのは板橋区大和町の、夫が前から住んでいる間借り先。
そこは中仙道に面した間口1間半、奥行き2間半の小さなお店でした。彼はそこで写真屋を営んでいました。
現代はとっくになくなったいわゆるDPEの店です。
「ヒロセフォト」という看板がかかっていました。
DPEとはDeveropment(現像)Print(焼き付け)Enlarge(引き伸ばし)の省略で、今では完全に死語ですね。
半畳の土間の奥に2畳の畳の部屋と畳1枚分の板の間。
そこのガラス戸を開けて裏庭へ出られるようになっていました。
2畳の部屋の横と店の土間をつないで縦に1畳半ある土間は、黒いカーテンで仕切られた暗室です。
結婚することになり、店の真上にある4畳半も借りることになって、そこで私たちの新婚生活が始まりました。
2階へ上る階段へ行くには一旦大家さんの廊下に入ることになり、トイレもその突き当りのを借りていました。
彼は中学生の頃から休みの日には、同じアメリカ映画を1日中繰り返し見て、当時売っていた英和対訳のセリフが書いてあるプログラムを暗記しては英語の勉強をし、高校は夜間部に入学して進駐軍のキャンプに住み込みで働いていました。
ですから高校を卒業する頃には完全に英語をマスターしていましたが、大学卒の資格があった方が有利だろうと第二部に入学、途中から昼間部に転部していたのです。
そして大学時代は自宅でDPE屋を始め、大学の友人と時間を合わせてどちらかが店にいるようにし、夜は自転車で赤羽の進駐軍キャンプでアルバイトをしていました。
キャンプでの仕事はHobby Shopという建物の管理人&技術指導者。
一度私も行ったことがありますが、学校の体育館ほどもある大きな建物で、そこにはありとあらゆるHobby(趣味・道楽)に関する機械や道具、器具、材料、薬品、塗料などが豊富に揃えてあり、兵隊たちが休みの時にそこで自分の好きなことを何でも自由に、無料で出来るようになっていました。
私の夫はとても器用な人で、大工仕事も電気関係にも詳しく、何でも出来る人だったので、兵隊たちの手助けをしたり、技術指導などもしていたのです。
私にも自分で組み立てたラジオや牛皮に彫刻を施したハンドバッグなどをプレゼントしてくれていました。
つまり、お客さんが昼間DPEを頼みに来たフィルムを、夜そこへ持って行っては仕事の合間にそこにある材料で現像をし、焼き付けもして家に持ち帰って来るのです。家では乾燥させて縁をきれいに揃えるだけで完成ですから、全く元手要らずの美味しい商売というわけです。
必然的に新妻は店番をすることになり、次第に現像の技術を覚え、夫がアメリカ大使館から帰って来るまでにフィルムを乾かしておくようになりました。
夫の働きぶりには感心しましたが、それ以上に驚いたのはアメリカ軍の兵隊に対するあり方です。日本の軍隊で、休みに趣味のことでもしようものなら「貴様、たるんどる!」と怒鳴られて何発も殴られるのが関の山でしょう。
日本の軍部は兵卒など消耗品としてしか見ていなかったでしょうから。