昭和30年、私は短大を卒業し就職をしました。


当時女子短大は人気があり、就職率は100パーセントでした。
大手の企業や銀行など引く手数多で、そこで将来性のある若手のサラリーマンを見つけて結婚するのが一番と思われていました。
現にそうなった人も多かったのです。

私は前にも書いたように英語の教師になるのが夢でしたが、短大では2級免許なので取ってもしょうがない、と諦めてしまいました。教職課程のためには土曜日にもクラスがあり、休めないというのも理由の一つでした。
後に40代になってから自宅で英語塾を始めることになり、その後予備校や塾の講師などした時に自分が教師に向いていることを発見し、資格もないのに楽しく教師業をしたものでしたが。

求人ボードにはいろいろな企業からの案内が貼ってありましたが、その中で私の目を引いたのはキャンパスの西門の入り口にある新築のモダンな建物「AVACO」(Audio Visual Aids Committee)でした。
日本語では「基督教視聴覚センター」と書いてありました。

短大で仲良くなった人が熱心なクリスチャンで盛んに私に受洗を進めるので、銀座教会でそれを受けたばかりの私には普通の会社よりも魅力を感じたのです。
大学卒の男性はすでに在籍し、新たに短大卒、高校卒、中学卒の女性をそれぞれ1名ずつ採用とのことなので応募しました。

面接で先ず「英文タイプは出来ますか?」と聞かれて、とっさに「出来ます」と答えてしまったのですが、実は習い始めてようやく指が文字の位置を覚えたくらいの時に指先を包丁で切ってしまい、キーが打てなくなってそのままやめてしまっていたのです。
我ながら図々しいと思ったのですが、受かりたい一心でそう答えてしまいました。
すると大勢の中から採用になったのです。初任給は7000円。
高卒5000円、中卒は3000円でした。大卒の方は10000円。
当時の大卒初任給は平均12000円でしたから、世間より全体的に低いです。宗教関係だから仕方ない、と思っていました。
中卒の子は電話の交換手としての採用で夜間高校へ通いながらなのでセーラー服で通勤していました。

就職後もこれまでと全く変わらず同じ都電で、学校の正門前での乗降です。
そこがしているのは、視聴覚を通して聖書の物語の幻燈や映画、人形劇、紙芝居などを、アメリカ製なら日本語に翻訳して教会学校や幼稚園に貸し出したり、ラジオ番組の制作などをすることでした。
「委員会」と名乗るだけあって理事会が運営をしていて、東京中のプロテスタント系のいろいろな宗派の牧師さんたちが理事を務めており、私の通う銀座教会の三井牧師もその中に含まれていました。

ラジオ番組の制作があるので立派なスタジオを備えており、機材は全部最新のアメリカ製。技術の方が「日本でこれだけの設備のスタジオはどこにもない。最新のNHKでさえ敵わないよ」と自慢していました。

(その後このスタジオ部分だけが早稲田に移り「アバコスタジオ」という単なる音楽スタジオとして今でも残っているようです)

オフィスは男性は「ボス」と呼ばれる所長さん以下1名、女性が私を入れて9名、スタジオ関係は男性ばかり5名というこじんまりした所で、とても家族的で楽しい職場でした。
お昼は女性軍はニクロム線が渦巻きになっている電気コンロに網を乗せて食パンを焼き、男性軍はよく近くの中華料理店から出前を取っていました。ラーメンが30円、ボスはいつも50円のチャーハンでした。

秋には目の前の短大の運動場を借りて運動会をしたり、時にはみんなで多摩川までピクニックに行ったり、世田谷にあったボスの自宅に招かれたこともありました。



私は入って早々英文タイプを打つことになりましたが、まだポツンポツンとしか打てません。先輩のチエコさんがパチパチと小気味よい音を立てている傍らで何とかこなしていましたが、ボスが部屋から出て来ると慌ててトイレに立ったり、探し物をしているふりをしたりして打てないことをごまかしていました。
そのうちに少しづつスピードも出て来ましたが、ブラインドタイピングも出来るチエコさんにはとうてい追いつけませんでした。
(でもこの体験が後のワープロ、パソコンに生かされました)

しばらくするとこのスゴイ設備のスタジオを使うために建物の一部にアメリカ大使館の情報部USIS(United States Information Serves)
が引っ越して来ました。
なんと私の婚約者のアルバイト先です。
当然大学最終年の彼も出入りするようになり、まだ婚約のことは言っていないボスや同僚たちに悟られない様にするのに苦労しました。

その頃私より2年早く入った大学卒の男性が、アメリカでラジオのプロデューサーになるための勉強をするために渡米することになりました。
期間は1年。帰国後は3年間お礼奉公が義務付けられていますが、めったにない貴重な体験です。
その人の次は私が派遣されるらしい、というのは後になって知ったのですが、すでに婚約者がいて、早く家を出て自分の家庭を持ちたいという思いでいっぱいだった私にはさほど魅力を感じる話ではありませんでした。

世の中は丁度テレビ放送が始まったばかり。その時にアメリカでプロデューサーの勉強をしていたら、その後もしかしたらその道の先駆者として活躍していたかもしれないので、もったいないことをしたと思うのですが、これが運命というものでしょう。