ご質問は三つありました。

①環七通りについて
②汽車から電車に変わったのはいつ?
③昭和30年ころのおやつ

①は自分の体験で驚いたことがありました。
実は結婚をして最初に住んだのが板橋区の大和町という所でした。
目の前は都電の通りで停留所も家の前でした。
左へ4,5軒行った所に十字路があって、都電の通る大通りの半分くらいの幅の道が横切っていました。右へ真っ直ぐ行くと王子方面、左はどこに通じていたか分かりませんが、細いろくに舗装もされていない道路でした。そこは銭湯に行くのにも、また煮豆屋さんへドンブリを抱えて買いに行く道でもありました。
そこには1年しかいなくて東京の晴海に引っ越したのですが、何年か後にその大通りを車で通ったら、いつの間にかその十字路が立体交差になり、あの細かった道が立派な環七通りになっていたのです。

ということで、元からある道を広げて環状線を作ったと思われます。おそらく道路幅を広げるためには立ち退きもあったでしょうし、それなりの補償もされたと思います。

②については東京に乗り入れる列車についてはかなり早い段階で汽車が電車に切り替わったと思いますが、国鉄の営業線から全て消えたのは昭和50年(1975年)です。
SLが好きという方は多いですが、実際に乗って見たらどう思うでしょうか。私の体験では良いことは一つもありませんでした。
先ず座席が固いです。そしてうっかり窓から首を出したりしたら煤が目に入って大変なことになります。一度それに会って、一日中目が痛くて大変だったことがありました。
トンネルに入ったら急いで窓を閉めないとそれこそ大変でした。
トイレは底が開いていて糞尿はじかにばらまかれるので、列車が走っている時しかトイレは使えなかったのです。(そのくせが抜けなくて私など未だに新幹線でも動いている時しかトイレに行きません)

③については昭和30年頃ならもう食べ物は何でもありましたから、それぞれが好きなものを食べていたと思います。たしかに甘食というパンがありましたね。三角形の女性の胸パッドのような形のしっとりしたパンで必ず2個が合わさっていました。
ほかに「黒パン」というのもありました。
うちはパン屋だったので知っているのですが、あれは売れ残りのパンを集めて作るのです。中身のあんこやクリームなどは取り除いて、全部混ぜて、何か足すのでしょうが平らな形に焼いて三角形に切ります。
三角で思い出しましたが、その頃「シベリア」というのもありました。これはカステラの間に羊羹が挟まっているものです。
なぜシベリアというのか分かりませんが、私の好物でした。

もっと古いところでは「カルメラ」というのが終戦直後に流行りました。木の把手がついた銅で出来た丸いお椀のような形のものにザラメをほんの少し入れ火にかけるとそれが溶けてきます。そこへ重曹を少し入れてかき回すとプーっとふくれて固まります。
それを食べるのですが、シャリシャリした感じで美味しかったです。
そのように固まったものを露店や闇市などで売っていました。