前シリーズ「90歳・戦中戦後の思い出ぽろぽろ」は私のいちばん古い2歳頃(1937年)の記憶から短大生になった頃(1954年)までのことを、5か月間にわたって、ほぼ1日置きに綴って参りました。

その頃には戦後の食糧難も解消され、電電公社が出来て各家庭に電話も引けるようになり、テレビの放送も始まってもはや「戦後」という言葉も色あせて来たので終了にいたしました。

それでも今の若い人は知らないこともいろいろあると思いますので、昭和の頃の書き落としたことなどいくつか書いてみたいと思います。
もしご興味があれば、しばらくお付き合いください。

またこんなことを知りたいなど、ご質問があればコメント欄に書いて頂ければ私の知り限りでお答えもしたいと思います。

先ずは50年代の東京の盛り場について。
何度か書きましたように、家が近かかった銀座は東京でもいちばん変化が少ない所ではないかと思います。
銀座のシンボルともなっている4丁目の角の「和光」は昔は「服部時計店」と言われていましたが、ビルの形やあの時計台はほとんど変わっていません。
その向かい側の丸い形のビルは今は1階はカフェ(たしかドトール?)になっていますが、以前は「三愛」というファッションビルでした。(私の最初の結婚のウエディングドレスはここで作ってもらいました)

デパートは三越と松屋は今でも健在のようですが、松坂屋はGINZA6に変わりましたね。松屋の斜め向かいの教文館は今でもあると思います。
その通りを有楽町の方へ行った角に銀座教会があります。
1階がたしか銀行で階段を上った2階からが教会。
学生時代はほぼ毎日曜日礼拝に通い、20歳の時に洗礼も受けました。(結婚式もここで挙げました)

アンパンの木村屋は健在ですね。今は東京駅でも羽田空港でも買えますが、銀座へ行くと必ず足が向いてしまいます。
文明堂も不二家もありますが、ブランドの店が多くなったのにはびっくりです。

渋谷は大きく変わりましたね。今も変わりつつあり、駅ビル完成後にはもう外国へ行ったのも同然になりそうです。
私が短大生だった頃の渋谷は学生の街でした。

確か青山通りから宮益坂を降りて行った都電の終点はハチ公広場の手前の辺りだったと思います。
西武百貨店がある所は当時は渋谷食堂、通称シブショクという今で言えばファミレスのような、食事も喫茶も出来る店で、何でもとても安いので学生のたまり場になっていました。

道玄坂の下を井の頭線の方へ曲がる細い道に面して「美奈津」という小さなお汁粉屋さんがあり、田舎汁粉30円、御膳汁粉35円でとても美味しかったのでよく通いました。

道玄坂の中ほどを右へ入ると突き当りがカレー屋さん、そこを左へ曲がった辺りに映画館が何軒かあり、渋谷全線座というのを覚えています。
短大生の頃、教室のいちばん後ろの端の席だった私は、カバンを廊下に放っておき、先生が黒板の方を向いているすきにスーッと抜け出しては映画館へよく行ってました。不良ですね。

新宿は歌舞伎町を抜けたところが四角い広場になっていて、右にコマ劇場,突き当たりは新宿劇場という大きな映画館。ここであの有名な「シェーン」を観ました。
左側、つまりコマ劇場の正面にはミラノ座という映画館。
その横にスケートリンクがあって、短大の体育の単位のために開場前の早朝にそこへ何度かスケートをしに行きましたが、残念ながら尻もちばかり、いっこうに滑れるようにはなりませんでした。

東京の盛り場と言えばあと浅草と池袋でしょうか。
こちらはあまり縁がなく、行くことが少なかったので変化が今一つハッキリと分かりません。