昭和27年(1952年)当時、うちの近所の小学校同級生の男子で大学受験をする人はチラホラいましたが、女子では皆無でした。

私の通っていた高校も今では熾烈な受験校となっていますが、当時は大学進学率は50パーセントほど。
高校を卒業したら良い所に就職してそこで将来性のある男性を伴侶として見つけるか、2,3年お勤めをしたらお見合いをして結婚、というのが一般的な時代でした。

そんな中で私は英語の先生になるのが夢だったので、密かに早稲田大学の教育学部へ行きたいと思っていました。
今なら高校入学と同時くらいに受験を視野に入れての勉強が始まるのでしょうが、当時はのんびりしたもので、私が予備校へ通い始めたのは夏休みに入ってからでした。
今でもそうかもしれませんが、当時は早稲田に近い高田馬場には、早稲田大受験に向けた予備校が密集していました。私が選んだのは「高田外語」という予備校でした。

家の近くの都電の停留所からいつもと反対方向に乗ると次が「永代橋」という終点。そこから日本橋方面へ向かう都電があり、終点が「高田馬場」だったので、それで延々と長い時間をかけて通いました。
必ず座れるので電車の中が勉強時間。暑い中を日傘を持って通ったのを覚えています。(どこかで乗り換えたかも知れませんが、それは覚えていません)

翌年願書を出す段になってハタと困りました。
滑り止めとして考えていたのは青山学院の女子短期大学でしたが、ここが受かった場合、入学金を収める最終日の翌日が、第一志望の早稲田の教育学部の合格発表日だったのです。

当時女子短大は人気の的で就職率も良く、こちらを第一志望にする人も多かったくらいですから悩みました。
青山学院は英語では定評のある学校でしたし、私にもある程度の自信はありましたが、ずっと夢見て来た早稲田にもトライしてみたい気持ちは満々。

我が家の経済状態を考えれば、入学金を捨てるなんてことはとても考えられません。級友たちの中には第二第三志望まで受ける人は何人もいて羨ましい限りでしたが、結局私は早稲田を諦めることにしました。

受験料もバカにはならないので、そういくつも受けられる状態でもありません。でもやはり進学はしたいので、先ずは90パーセントの自信のある方の青山短大1本に絞ることにしたのです。

受験日の何日か前のこと。突然母が家を出て行ってしまいました。
アルコール依存症の父との喧嘩は日常茶飯事でしたが、とうとう我慢の限界を越えてしまったのでしょう。
母がいなくても職人さんや通いの店員など人手はあったのでお店は営業を続けていましたが、私の受験日が来ても母は帰って来ませんでした。

しかし合格発表は気になって見に行ったようで、「ゴウカク オメデトウ」の電報が届きました。そしてその数日後家に帰って来ました。