私が中学を卒業したのは昭和25年(1950年)の春でした。
この頃には食糧難も解消されて、各地の闇市も姿を消していたのではないでしょうか。

下町方面から都電で通う4人のうちの一人、銀座に住むトシコちゃんは心臓の病気を抱えていて休みがちでしたが、そのうちドクターストップがかかって学校へは来られなくなりました。
家は銀座4丁目の三越の裏通りにある小料理屋さん。

家でずっと寝ているトシコちゃんを慰めるため時々友達と行っては学校の様子を話したり, 当時は珍しかった蓄音機でレコードをかけて一緒に聴いて楽しんだりしました。
一緒に行くのはいつも小学校5年生からの親友、焼け出され組のモーニャン(本名モトコ)です。
当時流行っていたダイナ・ショアの歌う「Buttons and Bows」のレコードを何度もかけては歌詞をカタカナで書き取るのに懸命でした。当時は歌詞カードなど付いてはいなかったのです。

これはビング・クロスビーとボブ・ホープの珍道中シリーズの第一弾「腰抜け二丁拳銃」という映画の中で歌われた歌ですが、通称「バッテンボー」で有名です。

バトンズアンドボウズがそう聞こえたわけですが、今は亡きイラストレイターの和田誠さんもエッセイにそう書かれています。
和田さんは私より一歳下なので、同じ頃に同じことをなさっていたのだな、と思いました。

トシコちゃんが寝ている部屋のすぐ隣りは「美松」というキャバレーで、中庭越しの下の方の窓からはダンスを踊っている人たちの脚が見えました。
表通りのそのキャバレーの入り口には出演者の看板が立っていましたが、よく見かけるのが「ダニー飯田とパラダイスキング&坂本九」という看板でした。

左隣が「英国屋」という紳士服の店で右隣にはお汁粉屋さんがありました。
その前がバス停で、そこから「東京駅八重洲口」行きのバスで家に帰りました。
当時は「東京駅丸の内南口」から有楽町、数寄屋橋、銀座4丁目、築地を通り、小田原町で左折して聖路加病院前、鉄砲洲、新川、八丁堀、茅場町を通って八重洲口まで行くバスがあったのです。今でもあるのかしら?

トシコちゃんはその後私たちが高校生になって間もなくの頃亡くなりました。
私とモーニャンはしばらく毎月命日の日にお線香を上げに行っていましたが、彼女の病気がちだったお父さんが亡くなった後、社会人で一家を支えていたお姉さんが結婚することになったため学校を続けられなくなってしまいました。(彼女は以前アップした中学卒業時の写真の前列に写っています。右側の私服の人です)

彼女とは前にも書いたように小学校5年生で初めての下町に住み始めた時、同じように焼け出されで近所の親せきの家の2階に一家で住んでいた時から仲良くなり、何をするにも一緒の親友でした。
お母さんは元小学校の先生だったそうですが、夫を失い、頼りにしていた長女も家を去ることになってすっかり元気をなくしていました。
三女のユウコちゃんはまだ小学生。(当時「音羽ゆりかご会」という童謡を歌うグループに属し、後にSKDで活躍しました)

お母さんにとってはしっかり者の二女のモーニャンが頼りで、彼女は高校へ入ったばかりなのに学校を辞めざるを得なくなってしまったのです。
そして近所の運送屋さんに事務員として勤めることになりました。
どんなに辛かったでしょう。
でも私にはどうしてあげることも出来ませんでした。
でもずっと交流は続きました。

彼女は後に大手の製薬会社に勤めるようになり、そこで知り合った男性と結婚。2人の男の子が生まれ、自宅で習字の塾を開いていました。
一足先に結婚し子どもを持った私とは折に触れ互いに訪ね合い、転勤で遠く離れても手紙をやり取りし、80歳を過ぎても交流が続きましたが、私よりも先にあの世へ行ってしまいました。
でも優しいご主人と巡り合い、二人の息子さんも立派に成人し、孫娘たちも生まれ、幸せな人生だったと思います。