お菓子屋の「ふじや」はパンとケーキも製造販売するようになり、固定客もついて順調に営業していました。



その頃近くの銭湯の隣りに空き店が出来ました。
間口2間奥行3間ほどの小さな店です。
すっかり商売に自信をつけた母はそこを借りて貸本屋を始めると言い出しました。

丁度母の遠縁にあたるトシオさんという青年が埼玉の田舎から東京へ出て来たいと言っていて、その人に任せることにしたのです。

我が家の1階の台所兼パン焼き工場の上は3畳間くらいの物干し台になっていたのですが、その一部、畳1.5枚分くらいのスペースを細長い小屋にしてそこをトシオさんの寝場所にしました。


つまり1間幅の押し入れを作ったようなものです。

その上の段をベッドにしたわけですが、1年後にはトシオさんの弟クニちゃんも上京して来て店を手伝うようになり、その押し入れみたいなスペースの下段をベッドにしていました。

本が大好きな私は貸本屋の開業は嬉しくて,店に「こまどり文庫」と命名したのは私でした。
まだまだ新刊が買えるほど豊かではなかった日本だったので、貸本屋は大人気でした。貸本専門のマンガ本なども数多く出版されていた時代です。
トシオさんは真面目一方の青年で、閉店時間になると帰って来て銭湯へ行き、狭い「自室」でラジオを聴いたり本を読んだりしていました。

皆の食事はもっぱら父方の祖母が作っていました。
夜が遅い母は私が学校へ行く頃はまだ寝ているので、朝食の準備はその祖母がしてくれていました。
私のお弁当も作ってくれたのですが、何とも美的センスに欠けるおべんとうで、いつも蓋で隠しながら食べたものです。

「ふじや」開店以来、私は学校へ行っていない時間はすべてお店番が仕事でした。
お客さんが入りやすいように入り口のガラス戸はいつも開けっ放しなので冬は寒かったです。
暖房は練炭火鉢だけ。それを足の間に置いて毛布をかけ、綿入れのはんてんを来て、よく英語の単語など覚えながら店番したものです。
まだ奥に部屋があった頃は、明日はテストだというのに両親はそこで近所の人と麻雀をしていることもありました。

それでも文句も言わず私もよく手伝ったと思います。
一人っ子だから大事にされたでしょう?と言われることが多いのですが、とんでもない。
他にきょうだいがいないので唯一の労働力にされてしまうのです。
それでも母の苦労を知っていますから文句も言わずよく働いたと思います。

高校生になってからは自転車の後ろに石油缶を積んで、築地まで仕入れにもよく行きました。
今は建て替わってしまいましたが、築地本願寺の対角線の角が当時は「共栄市場」という名前のいろいろな商店が入った市場になっていて、表通りに「宮政」というお菓子問屋があったのです。
沢山の種類のお菓子が並んだ上の、一段高くなった所に色の白い福々しいおかみさんが座っていて、いつもニコニコしながら采配をふるっていたのを懐かしく思い出します。