1950年当時千駄ヶ谷の駅前には津田英語会という大きな建物がありました。

そこを左に見て通りを曲がった所にSさんの家はありました。駅から数分の一等地です。

家には、文言は忘れましたがSさんの仕事に関係する内容の看板が掲げてあったのですぐに分かりました。

彼はどこかの役所に出す申請書の代書屋のようなことをしていたのですが、その役所がそこのすぐ近くに出来ていたので、その場所を選んだのでしょう。

1皆が事務所と茶の間と台所、2階に和室が二間の小さな家でした。
小父さんも小母さんもびっくりしましたが、歓迎してくれました。休みの日だったのでミチコさんも家にいて、久しぶりの再会を喜んでくれて、さっそく映画の雑誌や日本語に翻訳されたアメリカのティーンエイジャー向けの雑誌などを見せてくれました。

彼女は大の洋画ファンで、私の映画好きは両親の影響もありますが、多分にこのミチコさんの影響によるものが大きいのです。彼女の、今で言う「推し」はエロール・フリン一筋でした。

淀川長治さんが編集長だった「映画の友」も定期購読していて、私も早速友の会に入会し、その後ずいぶん長い間会員を続けていました。

その日とても楽しい時を過ごしたので、その後もう一度訪ねて行ったことがありますが、なぜかその後親にバレてしまってすごく叱られました。

無理もありません。自分たちを裏切って大変な思いをさせた相手の所へ娘がナイショで訪ねて行ったのですから。

何故わかったのかは不明ですが、もしかしたら、私が訪ねて行ったことでうちの両親が許してくれたと勘違いしてSさんが手紙でも出したのかも知れません。

Sさん一家がその後どうしたかは知る術もなく、ミチコさんの消息も分かりませんが、もし彼女が存命なら現在91歳のはずです。

でも彼女の家で読んだアメリカの雑誌で覚えたデート、とかステデイとかハイティーン、ローティーンなど、その頃誰もまだ知らなかった言葉には新鮮な驚きがあり、その時のドキドキワクワクは今でも忘れられません。