私たちが2部授業を受けている間に学校側は本格的な校舎の建築を決めたようで、先ず最初に体育館と1棟のプレハブが建ちました。



体育館を天井で仕切って2階を作り、1階2階とも真ん中の廊下の両側に教室をいくつも作って新学期が始まりました。


私たちの中学校の卒業式はプレハブ棟で行われました。

出席日数が足りていて成績も普通ならそのまま高校の方へ進級しました。高校の入学試験を受けて外部から入って来た人たちも何人かいましたが、彼女たちはそろって成績優秀でした。

クラブ活動は女子校なので運動系は少なく文科系がほとんどでしたが、私は一貫して演劇部でした。3年先輩の今は亡き宮崎恭子さん(仲代達矢夫人)が創始者です。1級下には今もなお活躍している吉行和子さんがいました。



講堂や校舎の建築も始まっていて丁度基礎工事の真っ最中でした。
院長先生が各学年を引き連れて建築現場を歩きながらこう言われました。
「皆さん、よく見ておきなさい。いづれこの部分は地下に埋もれて見えなくなりますが、建物では一番重要な部分です。皆さんは今この基礎工事と同じことをしているところです。それを忘れずしっかりと勉強してくださいね」

こうして私が高校1年生になった昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮が武力統一しようと南朝鮮へ攻め込んだのです。

戦争が起きれば軍需景気というのが生まれます。
人々が活気づき、銀座には人があふれていました。
戦後初めての景気の良さに人々は元気になり、浮かれていたのでしょう。
戦後だけでなく、日本で初めての好景気ということで、世間は「神武景気」と名付けました。

戦争は3年ほど続きましたが休戦となり、未だにその状態が続いていおり、朝鮮半島は南北に分裂したままです。

そんなある日、私はどうしてもミチコ姉さんに会いたくて、書き写しておいたSさんの住所を頼りに千駄ヶ谷へ向かいました。もちろん親には内緒です。