商売の経験など何もないのにおそるおそる始めた売店のような店を1年続けて自信が出来たのか、母は人に教えられて信用金庫からの借り入れでお店を広げ、それが順調に売り上げを伸ばしたので自分に商才があることを発見したようです。



今度は店の裏にあった6畳の茶の間の半分をつぶして、店側の方は3畳の茶の間とし、その上の天井裏を改造して梯子で上るとそこは両親の寝室になりました。(昔の家の天井裏はかなりスペースがあったのです)
残りの3畳分のスペースには中古のパン焼き窯が入り、どう募集したのかパン職人さんも2人雇い入れたのです。今でも名前を覚えています。松林さんと林さんでした。
2人は東京会館で料理人もしていたことがあり、時々東京会館風のカレーを作ってくれました。
材料は牛肉と玉ねぎのみ。母が作るジャガイモやニンジンの入った黄色いライスカレーとは違って茶色いカレーで、思いなしか高級な味がしました。

2階の4畳半が二人の部屋となり、私と祖母二人は表側の6畳の部屋を使い、そこに私の勉強机もありました。

職人さんたちが働くのは夜から朝にかけてなので昼間は寝ています。



朝起きると焼き立てのパンが出来上がってていて、家じゅうに良い匂いが満ちていました。
ただ困ったのは階段の下でドーナツを揚げるのでその匂いが2階に登って来て、壁に掛けてある私のコートにしみつくことです。
ドーナツ臭いコートを着て学校へ行くのが本当に恥ずかしかったです。

近所は小さな家内工業を営む商店や事務所が多かったので、そこに勤める人たちが昼食用によくパンを買いに来ました。
ほとんどがコッペパンを半分に切って片側にジャム、もう片方にマーガリンを塗って、それに牛乳1本が定番。それが一番安いのです。

母は職人さんに頼んで楕円形を少しずらして二つ折りにするパンを焼いてもらい、それを広げて間にキャベツの千切りとコロッケやトンカツをはさむパンを売り出しました。それは少し高いのですが、それもよく売れていました。
すると母は今度はうちに大量に残っていた本をくるむための細長く切ったパラフィン紙を利用したサンドイッチを考案しました。

食パン2枚にマヨネーズを塗り、キャベツの千切りとトマトとゆで卵の薄切りを挟んで斜めに切ってそのパラフィン紙で包むのです。
切り口に緑と赤と黄色が見えて、それもよく売れました。
(その頃まだレタスは市場には出ていませんでした)

今コンビニに並んでいるサンドイッチの元祖みたいなものですが、東京でそれを始めたのは母が最初だったはずです。当時銀座にもありませんでしたから。(ビニールが発明されたのはそれから何年も後のことです)

そうこうしているうちに私は中学を卒業し、高校生になりました。
下の写真は中学の卒業式の日のものと高校1年生の時のです。
制服はセーラー服でしたが、当時はウールがとても高価だったので、お古がもらえる人はいいけれど無理に買わなくてもいいと言われ、私はほとんど私服で通しました。

高校時代はスカートは長いのが流行りで、履いている靴もサドルシューズと言って、アメリカのティーンエイジャーに大流行していたものです。普通の革靴すら手に入りにくい時代、前後が白で中央が黒か茶色のサドルシューズはみんなの憧れでした。