母がいきなり「お菓子屋を始める」を言ったのがいつだったか、私が中学2年か3年の時ですが、なぜかはっきり覚えていません。



学校を転校して、これまでより1時間早く起きて初めての電車通学、そしてこれまでとは全く雰囲気の違う女子だけの学校になじむことだけで精一杯だった上に学校が焼失したり、2部授業になったり、あまりにも身辺に変化が多すぎたからだと思います。

父は親友の裏切りと仕事が出来なくなったことに完全に打ちのめされて全く働く意欲を失い、それまで以上にお酒を飲むようになってしまいました。
当時の言葉で言えば「最高学府」まで出て、読書家で博識、字も達筆でいわゆるインテリなのに情けない話です。
それに反して小学校もろくに出ていない母の方がこういう窮地に立たされた時は強いです。

間口2間の家の半分はガラスのドアが入った入り口、残りの半分は窓になっていました。母はさっさと大工さんを呼んで来てその窓を壊し、そこを店にしました。
つまり畳1枚を横に置いたほどのスペースに商品を並べるだけなので、店と言っても以前JRの駅のホームによくあったキヨスク程度の、いわば売店ほどのものなのです。

当時はパッケージに入っているのは板チョコとキャラメルくらいで、ほかは全部量り売り。それもまだ尺貫法が改正される前ですからグラムではなく匁(もんめ)が単位の頃のことです。
ガラスの蓋の付いた四角い箱の中のお菓子を量っては紙袋に入れて売っていました。おせんべいや飴類はガラス瓶の中に入っています。

最初は母も私も「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」が恥tずかしくて言えず、下を向いて小さな声でもぐもぐ言っていましたが、少しづつそれも言えるようになりました。

その頃サイコロキャラメルというのが流行っていて、2.5センチ四方くらいのサイコロの形をした箱の中に大きなキャラメルが2個入っているものですが、とても人気がありました。  



それを学校へ持って行くとみんなが珍しがって欲しがるので、家からいくつか持って行くようになったのですが、うちがお店を始めたことを知っているのでみんなが代金をくれるのです。


最初は上げていたのですが、度重なると母に内緒にも出来ず他のものも頼まれるので面白がっていろいろ持って行くようになりました。

お店は初めての体験なので、面白いのとどこかで母を助けたいという気持ちもあったと思うのですが、後に卒業後のクラス会で一人の友人から「あなたあの頃学校でお菓子を売ってたわね」と言われてすごく恥ずかしい思いをしました。

その売店みたいなお店を1年ほどした後、母は信用金庫からお金が借りられることを知って事務所にしていた1階のスペースを全部大改造をしてお店にしてしまいました。
近所に昔からのお菓子屋さんが一軒ありましたが、「ふじや」は思い切って明るく現代風な作りにしたので人気があり、売り上げは順調でした。お陰で私は私立の学校にも通わせてもらえたわけです。

それでも父は手伝おうともせず、お酒ばかり飲んでは「店なんかやめちまえ!」と怒鳴るばかり。店屋を一段下に見ていたプライドがどうしても捨てられなかったのでしょう。

この頃までに姿を消したSさんからは一度だけ父宛に手紙が来ていました。多分内容は謝罪だったと思いますが、読んだわけではないので内容は分かりません。両親も私には何も言いませんでした。
住所は渋谷区の千駄ヶ谷になっていました。

私は密かにその住所だけを書き写して保存しました。



姉と慕っていたミチコさんには会いたくて、千駄ヶ谷駅なら学校の近くの四ツ谷駅の二つ先。いつかこっそり訪ねて行きたいと思ったのです。