父と親友のSさんとで始めた出版社「自由評論社」は「医事法規集」「海事法規集」共に、それを必要とする職業の人に郵便局の振替用紙を同封したダイレクトメールを送ったことが功を奏して順調に売れ行きを伸ばし、あちこちの町の本屋さんにも並べてもらっていました。



ところがある日、突然共同経営者のSさんが、家族もろとも姿を消したのです。

Sさん一家は高崎から出て来てしばらく我が家に同居していましたが、間もなく近くに間借りする部屋が見つかってSさんはそこからうちへ通って来ていました。



いつそれが起きたのか、母は私にはすぐに言わなかったのでハッキリとは覚えていません。
そう言えば最近Sさんの姿が見えないなぁ、とは思っていましたが、私は私で学校が全焼したり、通学経路が変わったりでうちの中の変化にはあまり気付いていなかったのです。

それを知ったのは、ある日突然母が「お菓子屋を始めるからあんたも手伝ってね」と言った時でした。
何も知らなかった私はびっくり仰天しましたが、「お菓子屋?何だか面白そう。うちでお店をするのなら好きなだけお菓子が食べられる」くらいのことしか考えていませんでした。

かなり後になってから知ったことですが、Sさんは高崎で、あるお役所関係の代書屋のようなことをしていたらしいのですが、何か不始末をしてそこにいられなくなり、言わば夜逃げのような形で父を頼って東京へ出て来たらしいのです。
そう言えばうちに同居していたくらいですから家財道具のようなものは何もなく、身の回りのものしか持って来ていませんでした。
そして姿を消した後、間借りしていた部屋へ行ってみたらそこにも何もなく、文字通りもぬけの殻だったそうです。

これもかなり後になってから母から聞いた話ですが、町の本屋さんへ集金に行ったところ、どこもすでにSさんに集金されてしまっていたとのこと。


母は10円玉しか入っていない財布を握りしめて、日本橋の真ん中で地べたに座り込んで泣いてしまった、と言っていました。

当然父は大ショックです。
大学時代から一番の親友と思い、信じ切っていた人に裏切られたのですから。
残ったのは印刷屋さんや用紙屋さんへの借金だけ。
親子心中するしかない、と母に言ったそうです。
毎日お酒を飲んでは「一緒に死んでくれ。尚子は弟の所に預けてもいい」と言うので、母は「何を言ってるんですか!」と父を𠮟りつけたと言っていました。

即座にこの場所を使って何か出来ることはないかと考え、品川の方でお菓子屋をしている知り合いの人の所へ相談に行ったそうです。
するとその方は、お菓子屋なら自分が卸屋など紹介してあげられるし、素人でも出来ると思うから、と励ましてくれて、最初の仕入れの分は貸してくれたのだそうです。

そんなことが水面下で起きていることなど露知らず、私は学校のことで精いっぱいでした。

さあ、それから母の奮戦が始まりました。