千代田区の二番町に古くからあった校舎は山の手大空襲の日に焼失。


そのため私たちの学年が中学へ入学する時には校舎がなくて、吉祥寺と西荻窪の間にある東京女子大の教室を借りていたことは前に書きました。
そして中学2年の2学期にようやく焼け跡に新しく2階建ての木造校舎が出来たので中学・高校共にそこへ移り、ようやく落ち着いたばかりの時に、またもや校舎が全焼してしまったのです。

知らずに登校してきた教師も生徒もただただ茫然とするだけでした。
どうしてよいか分からず座る所もなくて立ち尽くしている教職員と生徒全員を前に、女性の院長先生が静かに話し始めました。

「原因は今のところ不明です。今後のことは早急に決めることに致しますから、皆さんは心配せず落ち着いていてください。では、いつものように朝の礼拝を始めます」

そして焼け跡を前に先生が選んだ讃美歌が301番の「山辺に向かいて」でした。



山辺に向かいてわれ 目をあぐ
助けはいずかたより 来たるか
あめつちのみ神より 助けぞ われに来たる

この日にみんなで涙ながらに歌ったこの讃美歌は、その後校歌に次ぐ大切な讃美歌となって事あるごとに歌い継がれることとなりました。

そしてすぐに、その助けは来たのです。

卒業生で政治家の鳩山一郎氏夫人となられていた鳩山薫子さんが、ご自分で創立なさった共立女子学園(中学・高校・大学)の一部を貸してくださることになり、すぐにそこでの授業が始まりました。
場所は神田の一ツ橋。学士会館のすぐ前です。
そこの共立講堂は、当時いろいろなコンサートやイベントによく使われていました。

教室は半地下にあり、中学と高校が午前と午後に分かれての2部授業になりました。九段や神田も都電が走っていましたから、中央線組は市ヶ谷からそれらを利用して通っていました。

火事の原因は放火だったようですが、結局犯人は分からずじまいでした。
敗戦直後のことですから、敵国アメリカの支援を受けているキリスト教の学校に反感を持った人間のしたことだろうと言うことになったようです。

その頃三笠書房からマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」が大久保康雄氏の訳で売り出されました。

まだまだ用紙不測の時代ですから裏の活字が透けて見えるような粗悪な紙でしたが、みんな夢中になって読みふけりました。



1巻から5巻までが間をおいて売り出されていたので、1ページずつ惜しみながら読んだものです。

すでに映画は出来上がっていて、配役は全部分かっていましたから、主役のビビアン・リーやクラーク・ゲイブル、メラニー役のオリビア・デ・ハビランドなどの顔を思い浮かべながらわくわくして読みました。



今でもあの黄色の表紙に GONE WITH THE WIND とこげ茶色の文字で印刷された本の、重みとザラッとした紙の感触を覚えています。


(今試しにネットで調べてみたら、この時の初版本には216万円の値がついていました!)

この映画が日本で封切られたのはその3年後くらいだったと思います。もちろん待ちかねていた私たちは、競って観に行きました。それも何回も。
アメリカでは、真珠湾攻撃があった頃にすでに映画館で上映されていたそうですが、もっと驚いたことに、スパイ養成の中野学校で、戦争中にこの映画が観られていたそうなのです。
アメリカと言う国の研究の一環としてなら、いかに日本が無謀なことをしていたかが分かったことと思います。

共立学園での2部授業は中学3年の終わりまで続きましたが、その間に我が家ではとんでもないことが起きていました。