中学2年生の2学期から転校した女子校への通学が始まりました。



うちの近くを走る都電は5番線。起点は永代橋、終点は目黒駅です。
私が乗り降りする停留所は永代橋の次の「越前堀」。昔はこの辺りに大岡越前守の下屋敷があったそうです。

その次が「八丁堀」。これも銭形平次でおなじみの地名です。
そのまま真っ直ぐ「桜橋」、「京橋」、「鍛冶橋」そして「都庁前」(今は都庁は新宿へ移転し、跡地は国際フォーラムになっています)、「馬場先門」で皇居のお濠に突き当たり、直角に左へ曲がって次が「日比谷」でした。

ここで築地、銀座方面からやってくる「新宿」行きに乗り換えます。



次が「桜田門」警視庁の前です。お濠端をずっと走って「三宅坂」。
今最高裁判所や国立劇場がある辺りは高台になっていて、進駐軍の将校たちのかまぼこ型ハウスが並んでいました。

次が「半蔵門」。そこで左へ曲がって麹町から四谷、そのまま新宿へと向かいます。

私が降りるのは「麹町4丁目」。そこから北へ向かって坂を下りたり上ったりした所に転校した女子校はありました。

あたり一面原っぱです。さすがに瓦礫は片付けられていましたが、焼け残った門や、お風呂場、家の土台などが草むらの中にそのまま残っていました。

通い始めていちばんびっくりしたのが、同級生たちの先生に対する言葉遣いでした。
下町では先生の前でも両親のことはお父ちゃん、お母ちゃん、時にはとうちゃん、かあちゃんと言う子もいました。

ところがそこの学校では「父が」「母が」というのです。

自分のことも「あたし」とか「あたい」ではなく、「わたくし」。(友達同士は「あたし」でタメ口です)



しゃべり方も「あんたサー、〇〇でサー・・・」などと威勢のいい言い方はしません。相手のことも「あんた」ではなく、ちゃんと「あなた」と言います。
最初は戸惑いましたが、じきに慣れて、すぐに下町言葉と山の手言葉を使い分けるバイリンガルになりました。

昔からこの地にあった校舎は、うちと同じ5月25日の空襲で焼けてしまい、私たちの学年が入学する時は校舎がなかったのです。
それで3代目の院長が引退後に創立した東京女子大の教室の一つを借りて入学した学年だったので、中央線沿線から通う人たちがほとんどで、みんな「四谷駅」を使っていました。

それがその年急遽2階建ての木造校舎が新築されてクラスがもう一つ増えることになったというわけなのです。
(その後私たちが高校生になる頃には立派な鉄筋コンクリート造の校舎が新築され、新入生からはクラスも五つに増えました)

下町から通う都電組は私を入れてたった3人しかいなかったので、それがずっと、卒業して成人してからも私のコンプレックスとなっていました。
家が狭く、お風呂もないので銭湯通いで恥ずかしい、と。

ところがある時クラス会で同級生から、「銀座に近い所に住んでいるなんて羨ましいってみんなで言ってたのよ。私たちの方が田舎者みたいで」と言われてびっくり。
その日からコンプレックスがなくなりました。
単純ですね。