昭和21年(1946年)は長かった戦争が終わった翌年。


アメリカ軍が進駐して来て社会全体がひっくり返り、物事が大きく変わった1年でした。

それまで安全な所にいて食べ物に困ることもなく暮らしていた軍の上層部の人たちは戦争犯罪人として裁判にかけられましたが、一般庶民は命の危険がなくなったと言う安心感で一気に元気になり、社会全体は復興の希望と活気にあふれていました。

その時期小学校の(国民学校という名称もすぐに廃止されました)6年生だった私の生活の中にも様々なことがありました。
父の復員、就職、強盗との遭遇、私の肺炎などについてはすでに書きましたが、学校では給食、修学旅行、学芸会、学校制度の激変など次々にいろいろなことがありました。

給食はいつもお腹を空かせている子どもにとっては嬉しいものでしたが、初めてのそれはバケツに入った雑炊のようなものでした。
それがお椀に1杯ずつ配られるのですが、お代わりは出来ません。

残りは担任の先生が自分の家に持ち帰るからです。


先生の家にもお腹を空かせた子どもがいたのでしょう。

それは分かるのですが、何となくその先生を尊敬できなくなってしまったことを覚えています。


栄養失調状態の日本の子どもたちを救え、とアメリカから送られたララ物資と言うのが有名ですが、その第一便が横浜港に届いたのがこの年の11月の末。多分その恩恵にあずかったのだと思います


これはアメリカの慈善団体からのものと言われていましたが、実は日本から移民した人たちが祖国の子どもたちのためにしたことであることが後にわかりました。

これが今に続く学校給食の始まりです


こんな時代によく修学旅行など出来たと思うのですが、箱根で撮った集合写真が残っているので確かに行っているのです。


そこには一緒に付き添いで行った母親たちも何人か写っていて、私の母もいますが、親が一緒の修学旅行なんて聞いたことがありません。


大涌谷まで長い道のりを歩いたことと早雲閣という名前を覚えているので多分1泊したのでしょうが、今思えばこんな時期によくそんなことが出来たと思います。


学芸会での劇はメーテルリンクの「青い鳥」でした。

2組に川上さんと言う目のパッチリとした可愛らしい女の子がいて、その子が主役。私は頭に「砂糖」と書いたボール紙をつけて写っています。川上さんは成人後映画女優として活躍していました。


そしてこの年更に大きな出来事と言えば学校制度の変化でした。

特に翌年小学校を卒業する私たちにとっては直接関係する、びっくりすようなことでした