時間を少しさかのぼります。

終戦と同時に大量の戦災孤児が生まれたことを記憶しておかなければなりません。

戦災孤児というのは空襲で親も家も失った子どものことを言います。
集団疎開先から東京へ戻ったら、家も親も失っていた、という子どもたちが大量に生まれたのです。
中にはわずかでも養護施設のような所に行けたり、親戚に引き取られたりした子どもたちもいたでしょうが、大半は寝る所も食べるものもなく、路上生活をするしかありませんでした。
上野の地下道を通った時、そこに大勢の子どもたちがいたこと、そしてとても臭かったことを覚えています。

マッカーサー総司令官が日本へやって来たのは終戦の日の10日後のことでした。引き続き進駐軍もやって来ます。
日本政府のお偉いさんたちは、アメリカさんにみっともないものを見せてはならないと、戦災孤児や浮浪児たちの一斉排除を命じました。

彼らはトラックに乗せられ、遠くの山の方へ運ばれてそこへ置き去りにされました。まるでゴミでも捨てるように。

政府の政策で強制的に疎開させられた上、またまた政府の政策で排除された子どもたち。
国民を大事にしない日本政府の体質がハッキリと現れた出来事だと思います。

少しは元気と知恵のある子たちは山から降りて近くの農家へ助けを求めに行ったり、食べ物を盗みに行ったりして生き延びたと思いますが、大半は泣きながらそこで飢え死にしたり、動けないまま死んだりしたことでしょう。

それが想像できなかったのでしょうか。
それよりも進駐軍に良い所だけ見せたかったのでしょうか。
この話をNHKのドキュメンタリー番組で見て初めて知った時、改めて日本と言う国の、「国民を大事にしない体質」を寒々とした思いで再度確認したのでした。