復員してきた父が持ち帰った紙幣はすでに使われなくなっていたので、父はすぐに就職運動を始めました。

先ずは親しかった友人が中野で出版社をしていることを知って訪ねて行ったらすぐに採用が決まり、しかも部長級で迎えてもらえることになったとても喜んでいました。

その頃動いていた交通機関は省線と呼ばれていた今の中央快速と地下鉄銀座線だけ。
うちからの最寄駅は「東京」駅、そして地下鉄は「京橋」でした。
両方とも歩いて30分ほどだったと思います。

うちのそばの運河を渡って八丁堀から東京駅八重洲口までは見渡す限りの焼け野原。街灯はまだ1本も立っていない頃のことですから夜は真っ暗になります。そこを父は毎日東京駅まで歩いて往復し、省線で中野駅まで通っていました。

父は復員してからしばらくの間は戦地での体験や出来事など毎日のように話してくれていましたが、いつの間にか話さなくなったのは現実の生活の方が忙しくなったからか、それとも戦地でのことを思い出したくなくなったからなのか分かりません。

戦地での話で繰り返し聞いたのは、鉄砲を持って前線に出た時、中国式の土饅頭と呼ばれるお墓の陰から銃をかまえておそるおそる顔を出したら、向こう側の陰からもやはり怖々顔をのぞかせた中国兵がいて、お互いにびっくりして逃げてしまった話、そして捕虜を木に縛り付けて銃剣術の練習台にした話でした。

最初の話は笑い話で済み、お互いに何事もなくてよかった、で終りましたが、後の話はぞっとする話でした。
父は大学を出ているということで上官に重宝がられ、事務的なことのサポートや手紙の代筆などを頼まれたりしていたので免除してもらえたそうですが、みんなはいやでも命令に従わざるを得なかったそうです。

「でも中には喜んでやるヤツがいるんだよ。自分から進んでしばられている捕虜に向かって銃剣を突っ込んで行くヤツがね」

この話は後にあちこちで聞きました。
その体験を強制されたためにトラウマで苦しみ、家庭で暴力を振るったり、アルコール依存症になったりした人たちの話を。

有名なテレビドラマ「私は貝になりたい」もそういう内容でした。
命令に従わなければ自分が殺される羽目になるので仕方なくやったことで戦犯となり、処刑されることになる一市民の話です。