昭和21年(1946年)4月。
いつの間にか「国民学校」は元の「小学校」に変わり、私は6年生になりました。
母は相変わらず新聞売りを続けていましたが、売る場所はいつの間にか日比谷から勝鬨橋を渡った所(そこからは月島になります)に変わっていて、私も手伝いをやめてしまっていました。
ある日学校から帰って2階へ上がって行くと、坊主頭のやせた男の人が向こう向きに座っています。そばに汚れたリュックが置いてありました。
気配に気づいて振り向いた顔を見て、思わず叫びました。
「お父ちゃん!!」
そう、それはまぎれもなく父でした。
1日も忘れたことのない父に間違いないのですが、見たこともない坊主頭と無精ひげにやせこけた顔を見て、一瞬別人かと思いました。
待ちに待ったお父さんが帰って来た、ちゃんと生きて帰って来た、うれしくてたまらないのに何だか恥ずかしくて、「お母ちゃんに知らせて来る!」と家を飛び出しました。
家の前の通りを右へ真っ直ぐ行くと400メートルくらい先に聖路加病院があり、その手前の左には隅田川を渡る「佃の渡し」がありました。(今は佃大橋という橋に変わっています)
聖路加の別棟の裏側を通る道を真っ直ぐ行くと勝鬨橋の築地側のたもとに出ます。
そこまで大体うちから1キロちょっとくらいでしょうか。
息を弾ませながら走りに走りました。
橋を渡って母に叫びました。「お父ちゃんが帰って来たよー!」
でも母はすぐには帰れません。新聞を売り切るまではそこを離れられないので私も一緒になって売りました。
そして橋を渡ってバスに乗り、有楽町の新聞社に売り上げを届けてから家に帰ったのですが、もしかするとそれは私が一人で行ったような気もします。
その時日比谷で使っていたような売り台は使わず、母は地面に座って売っていたので、売り上げだけなら私でも届けられたからです。
覚えているのは、その晩寝ている私の枕元で父と母が一晩中話をしていたことです。夜中に目を覚ますとまだ話し声が聞こえます。
その声を聴きながら、私はこれ以上ないほどの幸せな気分に包まれながら、安心してまた眠りにつくのでした。
いつの間にか「国民学校」は元の「小学校」に変わり、私は6年生になりました。
母は相変わらず新聞売りを続けていましたが、売る場所はいつの間にか日比谷から勝鬨橋を渡った所(そこからは月島になります)に変わっていて、私も手伝いをやめてしまっていました。
ある日学校から帰って2階へ上がって行くと、坊主頭のやせた男の人が向こう向きに座っています。そばに汚れたリュックが置いてありました。
気配に気づいて振り向いた顔を見て、思わず叫びました。
「お父ちゃん!!」
そう、それはまぎれもなく父でした。
1日も忘れたことのない父に間違いないのですが、見たこともない坊主頭と無精ひげにやせこけた顔を見て、一瞬別人かと思いました。
待ちに待ったお父さんが帰って来た、ちゃんと生きて帰って来た、うれしくてたまらないのに何だか恥ずかしくて、「お母ちゃんに知らせて来る!」と家を飛び出しました。
家の前の通りを右へ真っ直ぐ行くと400メートルくらい先に聖路加病院があり、その手前の左には隅田川を渡る「佃の渡し」がありました。(今は佃大橋という橋に変わっています)
聖路加の別棟の裏側を通る道を真っ直ぐ行くと勝鬨橋の築地側のたもとに出ます。
そこまで大体うちから1キロちょっとくらいでしょうか。
息を弾ませながら走りに走りました。
橋を渡って母に叫びました。「お父ちゃんが帰って来たよー!」
でも母はすぐには帰れません。新聞を売り切るまではそこを離れられないので私も一緒になって売りました。
そして橋を渡ってバスに乗り、有楽町の新聞社に売り上げを届けてから家に帰ったのですが、もしかするとそれは私が一人で行ったような気もします。
その時日比谷で使っていたような売り台は使わず、母は地面に座って売っていたので、売り上げだけなら私でも届けられたからです。
覚えているのは、その晩寝ている私の枕元で父と母が一晩中話をしていたことです。夜中に目を覚ますとまだ話し声が聞こえます。
その声を聴きながら、私はこれ以上ないほどの幸せな気分に包まれながら、安心してまた眠りにつくのでした。