ある時なぜか布団が配給になって、母と銀座まで取りに行ったことがあります。神田、日本橋、京橋、銀座、新橋と繁華街は全部焼けましたが、所々ビルは形だけ残っている所があり、銀座は4丁目の角の三越と服部時計店(現在の和光)、松屋も外側だけは残っていました。






あとはガレキの山です。まだ子どもでしたからそのガレキの陰でオシッコをしたこともありました。

服部時計店と松屋は中を整備して進駐軍のPXとして使われていました。
PXは何の省略か分かりませんが、いろいろな商品を売る売店のようなものです。
真っ赤な布地の敷布団を母と二人で松屋へ取りに行き、二人で担いで帰って来たことを覚えています。

歩道の上にはずらりと露店が並び、いろいろなものを売っていましたが、私にとっていちばん目を引くものはハーシーのチョコレートとリグレイのチューインガムでした。ほしいけど買ってもらえず、憧れでしかなかったので、今思えばさして美味しいチョコレートでもないのに、スーパーで見かけるとつい買ってしまうくせがあります。

交通信号はまだ復活していなかったので、MPと書かれたヘルメットを被った兵隊が台の上に乗って呼子をならしながら両手を使って交通整理をしていました。日比谷交差点も同じでした。
90℃向きを変えるごとにピーッと笛を鳴らして両手をパッ、パッと動かす動作がカッコよくて見とれたものでした。

後に岡晴夫の「東京の花売り娘」とか藤山一郎の「東京ラプソディ」という歌が流行りましたが、それを聞くたびあの頃の銀座の風景がまざまざと蘇って来ます。

新橋には闇市があったようで母は時々何か買いに行っていたようですが、私は連れて行ってもらっていないのでドラマや映画の中でしか知りません。
母は当時34歳くらい。ずっと後になってから初めて聞きましたが、当時の闇市の親分から「2号になれ」と口説かれたと言ってました。

「なってたらもっとラクな暮らしが出来てたかもね。でもお父さんが生きて帰って来る!ってことしか頭になかったから」と笑っていましたが、間もなくその願いは本当になりました。