以前にも書きましたが、出征兵士の留守宅の経済というのはどうなっていたのでしょう?

兵士には当然給料が払われていたと思いますが、それを留守宅に送るなんてことは出来ないでしょう。たとえ一部が留守宅に払われるとしても、空襲で死んだり、家が焼けて行方不明の人もいるでしょうから、実際問題として不可能なことだったと思います。

おそらく母は経済的には困っていたのでしょう。ある日近所の人から紹介されたと言って、私を連れて突然有楽町の読売新聞社へ行きました。

そこでその日の夕刊の束を受け取ると、組み立て式の台をかかえて日比谷交差点へ向かいます。
そこで日比谷公園の入り口の前にその台を置き、その日から夕刊を売り始めました。向かい側がお濠で、その前には進駐軍の総司令部,マッカーサー元帥のいるGHQが入っている第一生命ビルがあります。

母は「ここでもしお父さんの知り合いに遭ったら恥ずかしい」と下ばかり向いていましたが、子どもの私にはお店屋さんごっこのようで面白く、喜んで手伝いました。
全部売り切れると売り上げと台を持って新聞社へ届けてから家に帰ります。その頃は毎日夕刊は発行されていたので日比谷へは毎日通いました。

ある時「私が半分売ってあげる」と少し先の帝国ホテルの真向かいにあるもう一つの入り口へ行き、台がないので地べたに座って私一人で売ったこともあります。
そんな私にGIがリンゴを一個くれて、頭をなでてくれたことがありました。

当時夕刊がいくらだったか覚えていませんが、1円玉を沢山扱うので終わった時には指がニッケルで真っ黒になっていました。
(後年ラスベガスで10セント硬貨のスロットマシーンで遊んだ時やはり指が真っ黒になって、この時のことを思い出しました)

日比谷から読売新聞社へ行く途中、有楽町のガード下には、口紅を真っ赤に塗り、三角形のネッカチーフで髪を覆ったパンパンと呼ばれるお姉さんたちが大勢立っていました。

その頃の母と私が毎日思うことは同じ。
「お父さんが生きて帰って来ますように」ということだけでした。
私は密かに自分だけのジンクスを作って、道路を渡る時「○○歩で渡れたらお父さんは帰って来る」だとか、「○○が出来たらお父さんは帰って来る」とか、必ず出来ることを作っては誰にも言わず一人で「占って」?いました。