とりあえずの仮住まいのつもりで鉄砲洲の家に引っ越して来たのは終戦から3か月後の昭和20年11月でした。


うちは十字路の角から2軒目で、その角の家は区役所の出張所でした。
十字路を南へ渡るとその角が交番。
交番の隣の家の2階に笹塚で焼け出された一家が間借りをしていました。
そこのお父さんは成城学園の英語の先生。肺の病気があったようで召集は免除になっていました。
そこに私と同学年のモトコちゃんという子がいて、ニックネームはモーニャン。
この子とは同じ「焼け出され」ということですぐ仲良くなり、その後その友情は彼女が3年前に86歳で亡くなるまでずっと何十年も続きました。

学校は走れば2分くらいで着く所にある鉄砲洲小学校(現在中央小学校)の5年1組に編入しました。モーニャンは3組でした。
お互いにそれ以前の友達とは2度と会うことはなく、生死も分からないくらいですから人生でいちばん古い友達となったのです。

学校から帰るとランドセルを放り投げてすぐに学校の前にある公園に直行して一緒によく遊びました。滑り台やジャングルジムを使っての鬼ごっこが楽しくて夢中でした。
そのうち私は交番のお巡りさんと仲良くなり、そこにある黒い自転車を借りては三角乗りをしたり、お巡りさんに後ろを押さえていてもらっては乗る練習をしました。

相変わらずの食糧難で、母は埼玉県の清瀬にある知り合いの家へよく買い出しに行っていましたが、それにもついて行き、その家にある自転車ででも田舎道で練習したものでした。

交番の自転車もその家のも普通の男性用の黒い自転車ですから、5年生の女の子には大きすぎで何度も転んではあちこちすりむいていました。


今考えると私はかなりのお転婆だったのですね。笑