戦争が終わった。
もう空襲はないんだ、灯火管制はしなくていいんだ!
目の前がパーッと明るくなった思いでした。
そして何よりもそれを実感で感じたのが、滝野川のおじさんが言った
お父さんが帰って来る、タイ焼きが食べられる、という言葉でした。

父からは「北支へ行く」というハガキが一度来たきりで、その後どこにいるのか、生きているのか死んでいるのかも分かりません。
でも生きて帰って来てほしい!と痛切に思いました。

「無条件降伏」という言葉の意味は子どもでも分かりましたから、日本が負けたので戦争が終わったことは理解しましたが、悔しいとも悲しいとも思いませんでした。嬉しさの方がずっとずっとそれを上回っていたからです。

後で皇居前に座り込んで泣いている人たちの写真を見て、なぜ悲しいのか不思議でなりませんでした。
まして自殺した人の話を聞いた時は、理由が分かりませんでした。
天皇陛下様に申し訳なかった、と聞いた時も全くそうは思いませんでした。あれほど毎日天皇を崇め、その言葉を口にしただけでも畏れ多いことと教育されながら、私の中では父の存在の方がずっと大事だったからです。

にわかに人の動きが活発になりました。
故郷へ帰る人、軍隊が解体されて自宅へ戻る兵隊たち、疎開先から戻って来る人たちなどなど、目の前の高崎駅は連日大勢の人でごった返していました。
家の前を通る人々も多く、うちのガラス戸を開けて「すみませんが、荷物をちょっと預かって頂けませんか?」という人が何人も来るようになりました。
母は、どうせ土間が空いているのだからと、よく預かってあげていました。

そのうち、いつの間にか番号を書いた木の札を荷物に結び付け、同じ番号の札を預けた人に渡すようになりました。
母に聞くと、見知らぬおじいさんがその札を沢山作って来てくれて、「これを使って預かりなさい。そしてその度にちゃんとお金をもらいなさい」と言ったそうなのです。

父が出征して以来全く収入のなかった我が家で、母はどうやって暮らしを立てていたのか分かりませんが、貯金があったにしても減る一方だったことでしょう。
母は後に、「あのおじいさんは観音様の化身だったと思う。お陰でどれだけ助かったか分からない」とよく言っていました。どこのどなたか知らないけれど、私たちを救ってくださったのだ、と。
そしてその方はその後二度と現れることはなかったそうです。

それにしても、働き手をどんどん戦場へ送っておいて、留守宅の経済はどうなるのか、政府は考えてくれていなかったのでしょうか。
空襲や疎開で人々の特定が出来なくなってはいても、残された家族に兵隊の給料が支払われたとは思えないのですが。