1941年12月に戦争が始まってから半年くらいの間は日本軍は太平洋の島々に進撃し、マニラやシンガポールを陥落させるなどして勝ち進んでいましたが、42年6月のミッドウエー海戦では主要な戦艦や駆逐艦を次々失い、そこから一気に負け戦になって行きました。

日本国内ではいかにも日本が勝っているような報道をし、勇ましい軍歌を流し、最後には日本が勝利することを全国民に信じ込ませていました。

しかし実際には輸送船も次々に撃沈されて、南方の島々にいる兵隊たちへの武器や食料品の補給はどんどん出来なくなっていたのです。
戦後生き残って復員した人々の口から、ほとんどの兵士が戦死と言うよりも餓死で亡くなったことを知ってその痛ましさに涙したものです。

1944年になり7月にサイパン島を占領されてからは、そこから飛び立つ爆撃機B29による日本本土への空襲が本格的に始まりました。

田舎に親戚のある人たちの「縁故疎開」はすでに始まっていましたが、親戚も知り合いもいない東京の3年生以上の小学生は「集団疎開」をすることになりました。

区によって疎開先の県が決められ、中野区は福島県でした。
3,4年生は飯坂温泉の旅館へ、5,6年生は田舎のお寺へ行くことになりました。その時私は4年生。行く先は飯坂温泉の池田屋という旅館でした。

(この区によって県が違うというのは後に中学生になった時、杉並区の友達が長野県の別所温泉に集団疎開をしたと聞いて知ったことでした。またそれが「学童疎開」と呼ばれるようになったのも戦後になってからのことです)