私の記憶の中に「カンサイキ・空襲・4月13日」というのがあり、それが何を意味するのか、いつのことなのかはっきりしなかったのですが、偶然それの意味が最近になって分かりました。



丁度10日ほど前から読み始めた本があり、その中の記述で判明したのです。
その本はあの日本軍がハワイのパールハーバーを攻撃した1941年の12月8日の開戦の日に、朝日新聞の特派員としてアメリカにいた新聞記者が記した「祖国へ還る」(ダイレクト出版)という分厚い本です。

開戦と同時に敵国民となった在米の日本人は一斉に拘束され、各地の収容所に送られるのですが、新聞記者は外交官や銀行・商社の支店長等と同等の扱いで、同じように日本で拘束されている同じ身分の人たちと交換船で日本へ帰れることになります。

それまでの8ヶ月にわたる日々を克明に記録した手記なのですが、その中にこの私の記憶にある出来事も書いてあったのです。

まだ日本軍が勝ち進んでいる頃の昭和17年(1942年)4月18日に確かに艦載機による小規模な空襲が東京の荒川区の工業地帯にありました。

日にちだけ数日違っていましたが、まだ2年生だった私の記憶は大体合っていたということです。カンサイキは艦載機、つまり航空母艦から飛び立った小型の飛行機なので大きな爆弾などは積んで来れなかったのです。
(当時は日本軍が勝ち進んでいた頃なので、アメリカを「敗戦国」と記述しているのには失笑しますが)

このあと大本営の放送とは裏腹に日本軍は敗退が進み、2年後にはサイパン島が占領されて、そこから大型の爆撃機B29が編隊を組んで飛来するようになってからは本格的な空襲が始まり、東京を始め日本中の主要な都市は片端から爆弾や焼夷弾の雨を降らされることになりました。

この最初の空襲に驚いた日本はますますバケツリレーに力を入れるようになり、各家庭に一つずつ防火水槽という1メートル四方くらいのコンクリートの水槽が備え付けられるようになりました。

母がボウフラ(蚊の幼虫)が湧いて困るとこぼしていたのを覚えています。




防空頭巾は全国民の必携品となり、服装も男性は国民服と呼ばれるカーキ色の詰襟の服でズボンにはゲートルを巻き、女性はもんぺが標準の服装となりました。

当時はまだ和服が普通でしたから上下を半分に切って、下半分をもんぺに改造して着るのが普通でした。

2年生からなるべく近くの学校に、ということで私の学校が野方に変わったのもこの空襲がきっかけだったような気がします。