今は当たり前のことになっている誕生日ごとに一つ歳をとる「満年齢」で数える方法が正式に採用されるようになったのは、私の記憶では戦後からではないかと思います。



それまでは最初の回に書いたように全員が1月1日に一斉に一つ歳をとる「数え年」が普通でした。
今でも七五三のお祝いや厄年の数え方は、この「数え年」が採用されています。

私にも七五三の時の写真というのが1枚あるのですが、数えの7歳と言えば国民学校1年生の時。

戦時中なので華美なことはいけないと着物姿の子はいなかったのか、それともうちの親にそういう趣味がなかったのか、入学の時に買ってもらったセーラー服を着て写っています。





少しづつ世の中の空気が厳しくなり、防空訓練なども行われるようになりました。「隣り組」というご近所との数軒単位の班が作られ、回覧板と言うのが回って来るようになりました。



とんとんトンからりと、隣り組
格子を開ければ 顔なじみ
回して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり

という明るい調子の歌がラジオから流れていました。

防空訓練と言うのは、もし空襲などがあった場合は近所が協力して防火に励まなければならないので、みんなで並んで水を入れたバケツをリレーで送り、その水を家にかける訓練です。

どの家にも一つづつ防火水槽というのが備えられていました。
この訓練には各戸から必ず一人は参加しなければならないことになっていて、病人でも障がい者でも休ませてはもらえず、もし参加できないと「非国民」とそしられたという話は有名です。

しかし、数年後に本当に空襲が始まった時、真面目にそうやって火消しに励んだ結果、逃げ遅れて亡くなった人が多かったことから、この訓練は中止されたと聞いています。
いかに非現実的なことをしていたかと言うことです。

昭和18年、3年生になった時、私は「猩紅熱(しょうこうねつ)」という病気になりました。
高熱が出て、文字通り顔が真っ赤になる法定伝染病です。
今はあまり聞かない病気なので、ジフテリアや天然痘などと同じようにもう撲滅されたのかもしれませんが、当時は子どもが罹る病気だったようです。

本当なら隔離病棟に入院しなければならないのですが、家族は両親だけで他に子どもがいないからということで自宅療養が許され、8畳の部屋の真ん中に寝かされて庭を眺めていたのを覚えています。

その頃母も仕事をしていたのか留守が多く、父方の祖母がよく家に来ていました。
祖母は元々がお産婆さん、今で言う助産師なので多少の医学知識もあり、人体の断面図を書いてはいろいろな内臓の位置や、食べ物がどういう経路を伝わって行くかなどを説明してくれました。

母はよくシューベルトやブラームスの子守歌を歌ってくれたましたし、「浜辺の歌」もよく枕もとで歌ってくれました。

今でも「浜辺の歌」を聞くと涙が出そうになります。

あした 浜辺をさまよえば
昔のことぞ 忍ばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も