シンガポールが陥落して「昭南島」と名を変えた頃、突然通学区変更のお知らせが届いて、2年生からは野方国民学校(現在の「平和の森小学校」)へ通うことになりました。




戦争が始まったので、何かあった時に少しでも早く自宅へ帰れるよう近くの学校へ変更になったのです。
野方はそれまでの新井薬師とは正反対の方向にあります。確かに少し近くなりました。

家の筋向いの中野刑務所の官舎の間を通り抜けるとバス通り。そこを横断し、刑務所の正門の前を通って学校に通いました。

その頃住んでいた家は10歳の時に空襲で焼けてしまうのですが、今でもよく覚えています。
当時は主要な道路以外は舗装されてはいないので、全部泥の道。
雨が降ったり、雪解けの時はどこもかしこもぬかるみで大変で、よく炭俵(すみだわら)を広げたものが敷かれていました。

その泥の道に面してある門は、木製の引き戸のある簡単なものでした。(その頃に父と撮った写真に、その門の一部が写っているので載せておきます)





門を入るとすぐ右手にかなり大きな桃の木がありました。
花が咲くと遠くからでも見えるので、初めて訪れる人の目印になっていたようです。
ただ困るのは季節になると毛虫が沢山ぶら下がるので、そこを通ることが出来ず裏口から出入りしなければならないことでした。

門から玄関までは7メートルくらいの通路。

両側も突き当りも垣根で、右はお隣の横山さんとの境界、左の内側はうちの庭、正面の垣根にはお隣りへの出入り口の木戸がついていました。



左側の垣根の終わりにも木戸があり、そこから庭に入れます。
木戸の横が玄関。
向田邦子さんのドラマによく出て来るガラス戸2枚の玄関です。
上に上がるとそこは2畳の間。右手に2階へ上がる階段。正面は茶の間の6畳です。長火鉢がありました。窓がないので暗い部屋でした。

その奥が台所の板の間。左へ降りると1坪ほどの土間があり、洗い場とガスコンロが一つ。
水道が引かれていましたが、流しの横には井戸のポンプもありました。

土間のガラス戸を開けると裏庭。
ポンプ付きの井戸端があり、そこは洗い物や洗濯、夏は行水をしたり、スイカを冷やしたりする所でした。
外の道との間には垣根があって、それは左の方にある門に続いています。

玄関の2畳間の左の戸を開けると庭に面した縁側に出ます。
これもよくあるガラス戸と雨戸のある昭和の縁側そのものです。

いちばん手前の左側にトイレ。男性用の便器の奥の戸を開けると汲み取り式の「キンカクシ」便器のあるお便所です。(ここの掃き出し窓から出入りしたわけです)



手洗いは水の入った容器が庭に面した窓の外にぶら下がっていて、下を手で持ち上げると水が出る方式のもの。そばに手ぬぐいが下げてありました。

縁側に面した部屋が床の間のある8畳間。裏庭に面して窓がありました。縁側の外の庭はそれこそ猫のひたいほどのもの。
やがてここには防空壕が掘られます。

1階はこれだけで、2階はやはり床の間のある8畳が一間だけありました。
その頃祖父はもう亡くなっていたので、一緒に住んでいたのは両親と私の3人だったと思うのですが、父方の祖母もよくいたので、結婚した叔父の家とうちとを行ったり来たりしていたのかも知れません。

この庭で桃の木から落ちて這いまわっている毛虫たちを、レンズで陽の光を当てては焼き殺して遊んでいたことを覚えています。
子どもは平気で残酷なことをしますね。
今は見ただけで悲鳴を上げて逃げ回っているのに。