昭和16年(1941年)4月。


母の家出騒動もおさまって、私は1年生になりました。

この年から小学校は国民学校と呼ばれるようになり、私が入学したのは中野区立新井国民学校。
西武新宿線の「新井薬師駅」のそばに今もあります。

私の家からは門を出たら左へ行き、すぐの十字路を左へ曲がって真っ直ぐ天神様(北野神社)を通り抜け、新井薬師公園との間の道を行くと左側に学校がありました。

1年生が通うにはかなりの距離だったと思います。
当時は集団登校などはありませんから、多分近所の上級生の誰かと一緒に通ったのだと思いますが、近くに同級生はいませんでした。

1年生の時の思い出は、運動会の日が11月3日の「明治節」の日でとても寒かったこと、青いみかんを食べたこと、かけっこで2等賞になったことだけですが、一度筆入れを忘れて家まで取りに行った時のことだけはよく覚えています。

家には誰もいなくて中へ入れず途方にくれますが、どうしても中に入りたいので、トイレ(当時は「便所」と言っていました)の掃き出し窓を開けてもぐりこみました。

名前の通りごみをほうきで掃き出すための窓なので、高さが20センチくらいしかない窓ですが、まだ小さかったから入れたのでしょうね。
後から大人たちに呆れられたり、褒められたり(泣かずに偉かったと)、感心されたりしました。
この頃から、困ったことに遭遇した時、人に頼らず自分で何とか工夫して乗り越えたり,事を処理したりするくせがついたようです。
一人っ子で育ったせいでしょう。

ちなみにその時の筆箱(と当時は呼んでいました)は入学の時に買ってもらった緑色のセルロイド製で、ふたに小花の絵が描いてあるものでしたが、なんとこの筆箱を私はその後何年もずっと使い続けていたのです。

その間疎開する時も、空襲で逃げる時もずっとランドセルの中にあり、終戦後中学生になっても使っていました。
どこかが割れるとお線香に火をつけて穴をあけ、糸で修理して使いました。

高校生の時、毎日都電を乗り換える日比谷交差点の停留所で下へ落としてしまい、中身を拾い集めたことを覚えているので、少なくともその時までは使っていたようです。
新しいのが買えないわけではなかったのですが、そこまで「人生」を共にすると捨てられなくなり、どこまで使えるか半分意地になっていたのかもしれません。

1年生になった時のランドセルは父がどこかでやっと見つけて来てくれた豚皮で出来たもの。色は生のままの肌色で、ぽつぽつと毛穴の跡がそのままついていました。
誰もそんなのを持っている子はいないのでとても恥ずかしかったですが、それでもランドセルがあるだけ有難いということが、子ども心にも分かっていたのでしょう。それもずっと使っていました。

ところでこの昭和16年という年は12月8日にかの有名な大本営発表のあった年。

そう、日本海軍がハワイのパールハーバーを攻撃して、あの第二次世界大戦が始まった年です。



最初は調子のよかった日本軍(当時は大日本帝国海軍と言っていました)、翌年の2月18日にはシンガポールを陥落させ、昭南島という名前に変えてしまいました。(偶然ですが、この文章を書いているのが同じ2月18日です!)


日本中がお祭り騒ぎ。私達子どももローソクに火を灯した提灯を竿の先につけて、中野駅の前の大通りを提灯行列をして歩きました。


新宿には花電車が走ったそうです。

花電車と言うのは、都電を造花やモールなどで華やかに飾り立てたものです。

(今、念のためググってみたら、お座敷芸やストリップでの意味もあってびっくりしました。初めて知りましたよ)