幼い頃の記憶は断片的に1シーンずつ覚えていますが、その一つが父と母と一緒にボートに乗っている記憶。おそらく3歳くらいの頃でしょう。
コンクリート製の弧を描く小さな橋があったと言うと、母は石神井(しゃくじい)公園だと言いました。
(偶然にも30年後そのすぐそばに20年間住むことになりました)

もう一つは幼稚園のグランドピアノの下に座って泣いているシーン。
そして幼稚園の小使い(用務員)のおじさんに負ぶわれて泣きながら家に帰って来る場面。

当時は誰もが幼稚園に行く時代ではなく、おそらく2割くらいの子どもしか行っていなかったと思います。
近所の子が誰も行かないのに自分だけ行かされるのがいやだったのでしょう。一人っ子なので内気で人見知り、非社交的なところは(「内気」以外は)今もそのままです。
その後幼稚園はやめてしまいました。

もう一つ覚えているのが、父と2人で知らないおばさんの家を訪ねたこと。おままごとの入った大きな箱をもらって、父とハイヤー(当時はタクシーをそう呼んでいました)に乗り、窓の所についている輪っかにしっかりつかまってウキウキしていた気分。

その家は新宿駅の南口、今の高島屋の横を入った辺りにあったような気がします。家の前が斜めに坂になっていたようなぼんやりとした記憶。
母よりも少し年上のような感じの女性でした。

やがて私は母と二人だけで、なぜか熱海で暮らすことになりました。
5歳の頃のことなので、熱海でのことは比較的よく覚えています。

高台にある2階建ての家で、目の下には町が広がり、その先には海がキラキラと光っていました。家に周りには何軒か家があるだけで他は広い原っぱ。その先に梅林がありました。
近くに共同の温泉を汲む所があって、よくお湯を汲みに行った記憶があります。

下の通りに降りて行くと温泉プールのような浴槽のある旅館だか銭湯だかがあって、お風呂はそこへ入りに行っていました。

原っぱのはずれのお店でシュークリームというお菓子を売っていて,それを初めて食べた時はあまりにも美味しくて、ねだっては買ってもらっていました。

その家ではいつもは母と二人きりなのに、時々人が泊まりに来ていて、お正月に来た学生帽を被ってマントを来たお兄さんが、錦ヶ浦と言う所へ連れて行ってくれたことを覚えています。

あとで分かったのですが、母はその時私を連れて家出をし、新聞広告で見つけた熱海の別荘番として住み込んでいたのでした。

ある日、父が仕事仲間何人かと近くの「大野屋」という旅館に泊まりに来たことがあり、その後母と私は中野の家に戻りました。
私の小学校入学が迫っていたので、父が学校はやはり東京の学校へ行かせたいからと説得に来たのだとは、ずい分後で知ったことでした。

後に母から聞いた家出の真相はちょっとしたドラマのようでした。