いちばん古い記憶と言えば母の背に負ぶわれて見た風景なので、多分2歳くらいだと思うのですが、もっと大きくなってもおんぶをしていたのかも知れません。

母の着物の衿と髪の毛が目の前にあり、とても高い所から道の前方を見ている記憶です。母と一体になっている安心感。その満たされた感覚まで覚えています。

当時住んでいた場所は現在の東京都23区の地図で見ると「中野区新井3-9」という場所です。
家の門の前は細い土の道で、向かい側は低い土手になっておりその上はカラタチの垣根になっていました。土手の一部は開いていて、その内側には同じ形の平屋建ての家が両側に向かい合わせに何軒も建っていました。

そこを通り抜けると表のバス通りに出て、向こう側には灰色のコンクリートの高い塀が右へ長く続いています。

その塀の内側は中野刑務所でした。
今は「平和の森公園」になっている所です。

平屋建ての家々は刑務所で働く職員の官舎でした。

このバス通りを右へ(多分400Mくらい?)行くと西武新宿線の沼袋駅。
左へまっすぐ行くと広い道路に突き当たって、向こう側には「警察学校」と呼んでいた広い場所がありました。
ここがかの有名な「中野学校」と呼ばれた所ではないかと思います。

その角を右へ曲がって真っ直ぐ行った所がJR中野駅、だと思います。
大人たちが駅までは歩いて15分と言っていましたからうちからは1キロくらいでしょうか。
この駅は周辺は焼けなかったようで、我が家が乗り降りしていた中野駅北口は今も当時と変わっていません。

取り壊しになるという中野サンプラザは当時電信隊と私たちが呼んでいた場所にあります。
もしかするとここが中野学校だったのかしら?
調べてみないと分かりません。

距離的には沼袋駅の方が近いですが、やはり当時は「省線」と呼んでいた中央線の方ばかり使っていました。
そこから新宿へ出て、伊勢丹の屋上で遊んで、広い食堂でお子様ランチを食べたり、中村屋の肉まんを食べるのが何よりの楽しみでした。
その肉まんにケチャップがかかっていたのを覚えています。

さて、冒頭のおんぶの記憶に戻ります。
私の家の左横には3軒か4軒の家が並んでいて、角の家が「遠山さん」だったことを覚えています。そこに「えいちゃん」という私より一つか二つ年上の男の子がいました。
このえいちゃんは後に私が高校生の頃、立教大生になっていて一、二度会った記憶がありますが、どうして再会することになったのかも、その後のことも覚えていません。

その遠山さんの横が十字路になっていて、私が母の背中から見ている風景は刑務所とは反対方向の天神様と呼んでいた北野神社へ続く道。
少し行くと左側に銭湯があり、そこへよく行っていました。

当時家にお風呂のある家などはよほどのお金持ちで、普通はみんな銭湯へ通ったものです。
銭湯には「三助」と呼ばれる鉢巻をした白いパッチ姿のお兄さんがいて、お金を払うと背中を流しにやって来ます。(もちろん、女湯にも)
頼むのはたいていおばあさんが多かったですが、肩に手ぬぐい(当時タオルなんてものはなかったのです)をかけると、パンパーンと威勢の良い音を立てて肩をたたき、その音が広い浴室に響き渡っていました。

隣りの男湯からは浪花節を唸る声が聞こえたり、時には「おーい、俺は出るぞー!」などと女湯にいる女房に呼びかける声が聞こえたたりしたものでした。

話がどうも逸れてしまいがちですが、あのいちばん古い記憶を思い出すと、何とも言えない母との一体感、安心感も同時に思い出すのです。
それと母と一緒に同じ目線で同じ方向を見ているという何とも言えない満たされた思い、嬉しさのような感覚。それを今の赤ちゃんたちは味わえないのだなと、とても複雑な気持ちになるのです。

抱っこひもでは安心感はあるかも知れませんが見えるのはママの顔だけ、ベビーカーで混んだ電車に乗ったら大人の脚の林の中。つまんないだろうなと思うのです。