母の方は祖母止まり。祖父がどこのどういう人だったのかは全く分かりません。


でも父の方の先祖は1500年代にまでさかのぼってわかっています。
と言うのは代々がお寺で系図やお寺の歴史を書いた本が残っているからです。

そのお寺は愛知県にあり、私の遠い先祖がそこの2代目住職で、そこから代々の住職の名前が全部わかっており、私の曽祖父は15代目の住職でした。
この2代目という方は1521年の生まれで、本多忠利と言います。
14歳で得度し僧侶となって「空明」と名乗ります。弟は忠高と忠眞。
忠高の息子が大河ドラマによく登場するあの本多平八郎忠勝です。
(どうやら長男は代々平八郎を名乗ったようです)
つまり忠勝さんの伯父さんというわけです。

(お寺の歴史を書いた本の中に、「忠勝が叔父の空明に~」という記述がありますが、忠高の生年は1526年なので、「伯父」の間違いだと思います)

というわけで私の旧姓は本多、家紋は家康から頂いた「立ち葵」です。
長野の善光寺も同じ「立ち葵」ですが、あちらの開祖は本田善光さん。
どこかで田と多が分かれたのでしょう。

いつかNHKのファミリーヒストリーに鶴見辰吾さんが出演した時、お母さんの旧姓が「本多」と聞いて興味を持ったら忠勝氏の7代前がご先祖とのこと。7代さかのぼればうちも同じわけですから急に親近感を持ちました。

さて、住職だった曽祖父には何人も息子がいて私の祖父は三男。
名前も三男(みつお)。何とお手軽な名付けでしょう。
男はみんな坊さんになり、女きょうだいはみなお寺に嫁いだのに、私の祖父の三男さんだけは寺を出て商売を始めました。

でもあまり商才はなかったようで、裕福だった時期があったとは聞いていません。一時は上海にも住んで商いをしていたようです。





祖母の話では「さくらクレパス」と[ヤマト糊」は彼が考案したのに、誰かに特許を取られてしまったので金持ちに成りそこなったのだそうです。私は眉にツバをつけて聞いていましたが。

父は8人きょうだいの長男、上に姉がいたそうですが、7歳でジフテリアで亡くなったと聞いています。すぐ下の弟も子どもの頃に亡くなり、妹二人は16,7歳で相次いで結核で亡くなったので、私が知っているのは残る3人の弟、つまり叔父たちだけです。

上の叔父は戦争で身体を壊し子どももいないまま病没。次の叔父にも子どもがいませんでしたが、離婚をして戦争未亡人と再婚し、一人娘が生まれました。この人が私にとっては唯一の従妹なのですがお付き合いはとうに絶えています。


一番下の叔父はまだ20代で若く、海軍兵学校に行っていて家には夏休みにしか帰って来ませんでしたが、いちばん歳が近いので私は「お兄ちゃん」と呼んで慕っていました。 

 この叔父は海兵卒業後海軍航空隊に入り、終戦の7ヶ月前に23歳の若さでフィアンセを残して戦死。台湾沖の海戦でした。





2階級特進で少佐になりましたが、届いた白木の箱の中に入っていたのは名前を書いた紙切れだけでした。

8人も子どもを産んだのに残ったのは2人だけ。祖母の心中察して余りあります。

祖父は私が1歳の時に亡くなったので私の記憶にはありませんが、あまり成績の良くない三男、四男に成績の良かった長男(私の父)の通信簿を見せては説教をしたそうで当然兄弟仲は悪くなります。そんな父親が嫌で父は家を出たのだそうです。