いわゆる母方の先祖については、母の母、つまり祖母までのことしか分かりません。


母の話によると母は「もらわれっ子」だったそうなのです。

子どもの頃に住んでいたのは九段下の辺り。
10歳の時に関東大震災に遭っています。

生まれはかなり良い家らしいのだけれど、事情があってその家では育てられず、子どものいない夫婦にもらわれたのだと言っていました。


なぜ「良い家」かと言えば、たった1枚だけ持っている2歳の時の写真が洒落たワンピースを着ていること、生まれたのが病院だったと聞いているからだそうなのです。



確かに大正2年の頃の庶民の子どものほぼ100%が着物でしたし、生まれるのもお産婆さんによる自宅出産だったことは確かです。



そしてお正月には両親がそろって必ず新年のご挨拶に行く大きなお屋敷があり、そこのご主人のことを「午前様」と呼んでいたと。

その「午前様」が実の父親ではないかと思っていたようなのです。
実際はどうだったのか分かりませんが、そういう生まれだと思うことが「もらわれっ子」の引け目を埋めてくれる母としての矜持だったのではないでしょうか。
養父母は二人とも優しく人の好い人たちだったようで、母は幸せだったと言っていました。

ところが11歳の時、養父が心臓病で急死したことで人生が一変します。

生活が出来なくなった養母は住み込みの女中として働くことになり、母は知り合いの美術商の家に預けられて親子別々の暮らしになりました。
その家で3年働けば女学校へ通わせてやる、という条件で母は泣く泣く承知し、養母と別れて暮らす寂しさにも耐えて頑張ったそうです。

ところが約束は果たされず、3年経っても女学校へ行かせてくれるどころか無給で働かされ、少しお給料がもらえるようになったのはその美術商が神田にオープンした喫茶店で働くようになってからのこと。
それで養母は住み込みをやめて部屋を借り、二人で暮らし始めたそうです。
ということで、母の学歴は小学校まで。

当時父は中央大学法学部の学生。中央大学はその頃神田にありました。
神田にはほかに明治大学、専修大学もあり、言わずと知れた本屋の町。
母の働く喫茶店は学生たちのたまり場だったそうです。

父はその頃両親と弟2人がいる家を出て、大学近くの医者の家の書生をしていたそうです。資格もないのに見様見真似で手術の手伝いをしたり注射もしていたというからひどい話です。
なかなかの遊び人でけっこうモテてもいたようで、仲間と母に目をつけると誰があの娘をモノにするかと賭けをしたとか。これもひどい話。

まだハタチ(20歳)そこそこで純情そのものだった母はコロリと父の術中に落ちてしまい、やがて私を身もごることになるのです。




その頃には父の就職も決まっていたので2人は中野の両親の家に一緒に住むことになりました。結婚式などしたのかどうか、写真もないのでしなかったのでしょう。
母にとっては舅、姑、小姑と一緒に暮らすことになり、毎日が緊張の日々だったようです。

母の養母はその後一人暮らしを続けながら時おり母を訪ねて来ていましたが、私が10歳の時には一緒に暮らしていました。(しかし何十年も後に実は養母ではなく「実母」だったことが判明します。これについては別に書きます)

母は病院での出産を望んで準備もしていたようですが、父の母親は実は若い頃からお産婆さん。
家に産婆がいるのに病院など行く必要はない、と言われて母は仕方なく自宅で私を生んだそうですが、姑に取り上げてもらうなんて恥ずかしくてたまらなかったと言っていました。

後に私はこの父方の祖母にはずい分世話になり、母よりもむしろ近しい関係になりました。