これまで息子が高校生の時に黙って家を出て行ってからの45年間の彼との関係やその時々の思いを綴って参りましたが、主な出来事や私の思いだけなので、娘たちや息子自身が書いたらまた違うものになるかもしれません。

息子の病気のことですが、バージャー病と言うのは「閉そく性血栓血管炎」とも言われ手足の動脈に血栓が出来て血液が行かなくなり末端に壊疽を起こす指定難病の一つです。しかしそれについて彼自身はちょっと違うように思うと言っています。
成人してから手足の関節が詰まったような感じになるとはよく言っていましたが、その後に検査をすると成長期に出来るはずの毛細血管が出来ていなかったそうなのです。

それが彼自身の心に変容が起きた今では、以前見たこともないような太い血管が存在していると言います。
心と身体が密接につながっていることは知っていましたが、正直驚きました。
また以前は顔色がどす黒かったそうなのですが、ある時から真っ黒な脂のようなものがぼろぼろと出て来て、すっかりきれいになったとも言います。
自分の中にあったネガティブなものがどんどん外へ出てきたのだと思うと言っていました。

確かに以前は考え方も言葉も確かにネガティブそのものでした。
「人間は自己否定から出発しなければいけないんだ」などとよく言っていた時期がありました。今から30年以上前、まだ自己肯定感とか自分を愛するとか大切にするなどという概念すらほとんどなく、言葉としても使われていなかった時代のことです。

彼の父親、私の夫だった人は人並外れた能力の持ち主で努力家。仕事熱心、真面目で几帳面、お酒も煙草ものまず、浮気もギャンブルも縁のない非の打ちどころのないような人でした。
でも今思うとそういう自分を自分で認めておらず、常に劣等感とその裏返しのプライドと嫉妬心をかかえ、常に人にバカにされまいと肩肘張って生きていた人だと思います。それは育ってきた環境に大いに関係するのですが、誰もそんなことは気にせず、周りからは偉いね、すごいね、と言われてきたのに自分で自分を認めることが出来ず、つまりは自己評価が必要以上に低かったのだと思うのです。

彼には家庭に対する彼なりの夢があり、それを達成しようとするあまり家族の意志は度外視して自分の描く家庭にしようと懸命だったのでしょう。ですから自分が決めたルールに反することがあれば妻にも子どもにも容赦がなかったのです。

今となれば私にもそれが理解できるのですが、渦中にある時はそんな分析は出来ず、ただただこうあってほしいという思いがいっぱいで、自分も人も俯瞰して見られるような人間ではありませんでした。

そんな緊張した空気の中で育った息子が成長期に身体が正常に成長できなかったとしても不思議ではありません。そのことと後に発症したバージャー病(と言われる症状)が関係していないとは言い切れない気がします。
息子の心の中でどれだけの葛藤があったのか、その結果私や姉妹がどれだけ苦しんだかわかりませんが、長い時間をかけて今は全てが良き経験として感じられるようになりました。終わりよければすべて良し、という言葉もあります。

離婚した時まだ40代後半だった夫はその後初婚の方と再婚し、30年間幸せに暮らしたようですのでほんとうによかったと思います。彼は今から15年ほど前に亡くなり、奥さんもその後何年かして亡くなって今は一緒に彼の母親と同じお墓に入っていて、娘たちがちゃんと墓守もしています。

今思うと彼の言った一言が彼の寂しさを表しているような気がします。

「君は母親になるのが早すぎた」とある時ポツンと言ったのです。

後で気が付いたのですが、恐らく子どもを持つのが後5,6年遅かったら全く違っていたような気がします。二人きりだった時はわずか1年半ほどで長女が生まれました。一人っ子だった私は早く子どもがほしくて大喜びだったのですが、彼はもっと私を独占していたかったのだと思います。
それで必要以上の量の仕事を引き受けて来ては常に私を隣りに座らせ、翻訳、口述筆記や清書、文章起こしなどさせていたのだと後になって気が付きました。
私が子どものことに時間を取られると機嫌が悪かったことも。

私がもう少し大人で、その辺の理解が出来ていたら、家族みんながもう少し楽しく過ごせたのではないかと自分の未熟さを責めるばかりです。

そのせいで子どもたちにはずいぶん苦労をかけてしまいましたが、今人生の最終章を迎えるにあたって、3人の子どもたちに出会えたこと、彼らに夫のDNAを分け与えてやれたことは私がこの世に遺せた最大のことではないかと確信しています。みんな、みんな、ありがとう!