今の若い人たちにDPEなどと言ってもわからないかもしれませんが、カメラにフィルムを入れて写していた時代は、撮り終わったフィルムをDP屋に持って行って現像(Develop)焼付け(Print)引き伸ばし(Enlarge)してもらっていたものです。
夫は友達とどちらかが店にいられるように選択科目を調整して大学へ通いながらそのDP屋を営んでいたのです。入り口のガラス戸には「ヒロセフォト」と書いてありました。
私は短大を卒業すると、大学の構内に新しく建った「基督教視聴覚センター」(Audio Visual Aids Committee)AVACOという所に就職しました。アメリカから来る聖書の物語のスライドや映画を翻訳したり、独自に人形劇や紙芝居を制作したりして全国の教会学校や幼稚園に貸し出しをする機関です。
アメリカ製の最新型の機械を備えたスタジオもあり、ラジオ番組の制作もしていました。
そのスタジオと一部屋をアメリカ大使館の情報部USISが借りていて、なんとそこに夫となる人がアルバイトでやって来ました。
でもお互いに知らんふりをしていたので、二人がすでに婚約していることは誰も知りません。
私が入所して間もなく先輩の男性職員がアメリカへ1年間ラジオプロデューサーになるための留学をすることになりました。次は私が行くことになるらしいと聞いていましたが、
良く言えば謙虚、実はまったく自信がなく自己評価の低かった私は「とんでもない話」と思い、関心は結婚のほうに傾いていました。
そして1年後、彼が大学を卒業した直後の5月、私はあっさり勤めをやめ予定通り銀座教会で結婚式を挙げました。新郎23歳、新婦21歳でした。
親友の共同経営者に裏切られ、失意のうちに働く意欲をなくしてお酒ばかり呑んでいる父と、家にいれば店番ばかりの家から早く出たかったのと、母が私を早く嫁がせたがっていたためで、あまり深い考えはなく、自分の家庭がほしいと思っていただけでした。
母は一人っ子の私を嫁がせたら父と別れるつもりだったようですが、生活手段となっているお店を出るわけには行かず、結局そのまま添い遂げました。
新婚生活は板橋の間借り生活からのスタートでした。
夫はアメリカ大使館に正式採用され、板橋から虎ノ門まで通勤していました。
帰宅して夕食を済ますと自転車で毎晩赤羽キャンプのホビーショップへ通い、私は昼間店番をしながらいつの間にか現像を覚え、彼はそのフィルムを持ってキャンプへ行ってプリントして帰って来る毎日でした。
アメリカ大使館は土日はもちろん休みですが、日本の休日とアメリカの休日の両方が休みで、ボーナスはありませんが年収はかなりよかったと思います。夜のキャンプのバイトも
あり、その上印画紙タダ(笑)のDPの店の売り上げもありましたから、収入はかなりあったと思います。
初めてのお正月を迎えて間もなく、妊娠がわかりました。
夫は友達とどちらかが店にいられるように選択科目を調整して大学へ通いながらそのDP屋を営んでいたのです。入り口のガラス戸には「ヒロセフォト」と書いてありました。
私は短大を卒業すると、大学の構内に新しく建った「基督教視聴覚センター」(Audio Visual Aids Committee)AVACOという所に就職しました。アメリカから来る聖書の物語のスライドや映画を翻訳したり、独自に人形劇や紙芝居を制作したりして全国の教会学校や幼稚園に貸し出しをする機関です。
アメリカ製の最新型の機械を備えたスタジオもあり、ラジオ番組の制作もしていました。
そのスタジオと一部屋をアメリカ大使館の情報部USISが借りていて、なんとそこに夫となる人がアルバイトでやって来ました。
でもお互いに知らんふりをしていたので、二人がすでに婚約していることは誰も知りません。
私が入所して間もなく先輩の男性職員がアメリカへ1年間ラジオプロデューサーになるための留学をすることになりました。次は私が行くことになるらしいと聞いていましたが、
良く言えば謙虚、実はまったく自信がなく自己評価の低かった私は「とんでもない話」と思い、関心は結婚のほうに傾いていました。
そして1年後、彼が大学を卒業した直後の5月、私はあっさり勤めをやめ予定通り銀座教会で結婚式を挙げました。新郎23歳、新婦21歳でした。
親友の共同経営者に裏切られ、失意のうちに働く意欲をなくしてお酒ばかり呑んでいる父と、家にいれば店番ばかりの家から早く出たかったのと、母が私を早く嫁がせたがっていたためで、あまり深い考えはなく、自分の家庭がほしいと思っていただけでした。
母は一人っ子の私を嫁がせたら父と別れるつもりだったようですが、生活手段となっているお店を出るわけには行かず、結局そのまま添い遂げました。
新婚生活は板橋の間借り生活からのスタートでした。
夫はアメリカ大使館に正式採用され、板橋から虎ノ門まで通勤していました。
帰宅して夕食を済ますと自転車で毎晩赤羽キャンプのホビーショップへ通い、私は昼間店番をしながらいつの間にか現像を覚え、彼はそのフィルムを持ってキャンプへ行ってプリントして帰って来る毎日でした。
アメリカ大使館は土日はもちろん休みですが、日本の休日とアメリカの休日の両方が休みで、ボーナスはありませんが年収はかなりよかったと思います。夜のキャンプのバイトも
あり、その上印画紙タダ(笑)のDPの店の売り上げもありましたから、収入はかなりあったと思います。
初めてのお正月を迎えて間もなく、妊娠がわかりました。