みなさまへ

おげんきでおすごしでいらっしゃいますか。

 

ただいまーーーー!!!!!

 

たのしかったーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!

 

 

3年前の、津久井やまゆり園事件をきっかけに、

歌のライブだけじゃなく、

障害をもつ当事者としてのわたしたちの等身大の生活のこと、

学生時代をすごした特別支援学校で得たもの、

 

「自分と身体や価値観が違う奴は排除」

 

「商品を多く早く作れたり、隣の人より多くお金を稼ぐことができたりと、

本人の生産性の高い人が価値が高い、

そうでない人は価値が低い」

 

という今の世の中の一部風潮を

 

『わたしたちは 真逆にしたいね』

 

と企画したお話し会。

 

だからね、体験や今の生活などの、楽しい部分だけを話したわけではなかった。

 

かずちゃんが企業に就職してからの周囲からの無理解やマウンティングの話し。

 

だっこさんが、昔、在宅生活の中で、介助者から精神的虐待(言葉のいじめのすごいやつ)

を受けて最後警察まで行ったときの話し。

 

うちらにとっては、過去のことだけど、

 

今、過去のわたしたちと同じような状況にある人が、一人でもいるんだったら、来てほしい。

 

そう思って、企画しました。

 

小さな小さな会場(24席にいす足して30席、あとちょっといたかな?)だからだたけど

結果、満員御礼よ。

 

びっくりしたよ。

 

だって

「障害者のこと」じゃん?

もうちょっと世の中、他人のことには無関心なのかなと思ってたから。

 

こんなにも、「わたしもいっしょに、世の中作る側にまわりたい!」

「見てるだけじゃなく、作る、側にいたい。」

って 意思を持ってきてくださる方がいるんだなと。

 

参加してくださることで、もう世の中を作ってる。ひとりひとりが。全員。

 

街に出ると姿が目に触れるでしょ?

車いすでも杖でもなんでもさ。

そうすると、通りすがりでも見た他者が一瞬でも何かを思うでしょう?

 

電車の、ラッシュのときなんかさ、むっぎゅむぎゅに乗っているときとか、

お互いにどうにもこうにも避けられないし

車いすに「なんだよっ!」って思う人も一両にゼロじゃないさそりゃ。

 

でも、ひとりでもふたりでも

わたしやかずちゃんに会ったことがある人だったら

「二人はどうやって電車乗るんだろ?」

「あ、あのかたの車いすはだっこちゃんのよりも重そう!

電車やバスではどうしてるんだろう?!どうやって乗るの?」

って関心が向くでしょ?

 

障害のない人も、今日を節目に、

きっと階段を見たら

「ああ、そうか、こういうとき、だっこちゃんやかずちゃん、どうするんだろう?」

と、会って、見る、話す、

前と後とでは段差ひとつも見方が変わるでしょ?

 

 

それからね、300人でも3000人でもなく、たった30人、この規模の開催でも、

わたしもかずちゃんも、一人じゃあ動けないから、

当日は話すか歌う他は、

マジでなんにもできない(笑)

もうホント、「かっこ笑い」ってわざとこう↑つけたいくらい。

 

椅子と机の並び替え

スライド制作も、データつくりは、やったことないけど

もしかして教えていただけばできるかわかんないけど(やらないけど。もっとわたしより好きで得意でできる人がいるから)

 

ケーブルとプロジェクタつなぐとか、映写してみるとか

 

手や、腕や、脚で、自力では、マジでなんもできないんだよ。

 

でもね、身体的、物理的なそれは、その人の『能力』じゃない。

 

(一般でいう『生産性』と、その人個人の『ほんとうの能力』との

違いが解らないから

「わたしは人よりできない、、、、」

「わたしは人よりできない、、、、」

って、苦しんでいる人って、障害のないかたでも、ほんとうに一人ならずいるよね。

「できない」イコール「バツ」でないし

むしろそこを掘り下げれば、どこまででも「自分自身」として開花するのに。)

 

身体的な能力の優劣なんて、それ生産性でもなんでもないし

「一般の多くの人が言う生産性」と、「個人の能力」とは違うもの。

 

「その人の、独自の能力をもって何かを生産する」ということがね

「できない人」は、マジでだれもいない。

 

身体的だとか、発達障害とか精神障害とかで、目には見えないとか、それはどちらでもいいけど

障害や病気でできないことが多い人のまわりには

人が必要。

 

これなんだよ。

 

何かができない人のまわりには、それを補える人が、複数人、必要。

 

できないことが多い人はね

 

その誰かのできない何かの部分が、「好きで得意でやりたくてできる人」に、

 

いつだって、活躍の場をあげてるの。

 

「できないということ」が、「できてる」の。

 

赤ちゃんは介護度100だけど

育てる人に触れあってお世話して育てる喜びを乳幼児期にあげてるでしょ?

 

大変さもあげているけどきっと、、、、でもそのお母さんやお父さんの「体験」は、

育児の中で生まれたアイデアは、アイデアグッツなんかにすればビジネスになるし

すごい面白い育児書とかエッセイにすればそれもビジネスになるし

お金にもなるだろうけど

 

何よりも、

「わたしの経験はこうだったよ。踏まえてのアイデアはこれだよ!」

と、『自分の経験』という引き出しを増やして何かを語ったり、作ることは、

 

「同じような体験を今している当事者に向けての貢献」になる。

 

で、「子育てという経験を積むがためには、何もできない赤ちゃんが必要」

ということ。

 

生まれた直後に立って走ったらラクだろうけど

面白味が減るよねえ?

 

「泣きもしないし、おねしょもしない、

手がかからない赤ちゃんがいいから、

人間の子よりロボットの子どもがいい」

 

って願う人って、世の中にゼロではないだろうけど

まだあんまりいないでしょう?

 

なぜならば、わたしたちは「人間」だから。

 

生み育てたことがないから、あまり言えないけれど。

 

わたしは、たぶん大野もここは同じ気持ちかなと思うんだけど

 

特別支援学校で学生時代を多くすごして(わたしは小1から12年、大野が中学から6年)

 

重度重複障害と言って、身体や知的な能力は、

 

もしも、

「一般の障害のない人と比べれば」という基準でいえば、

 

能力が低い、あれもこれも、「できる」より「できない」グループに入れられてしまう仲間たちと、

 

クラスメイトとして時間をたくさん過ごした。

 

やまゆり園事件の犯人が、

「この子たちは、なにもわからなくて、車いすに縛られているだけでかわいそう。

生きている価値がない」

と、最低の身勝手な理屈で、勝手に決めつけて殺した、

犠牲になった方々とも、同じような障害の仲間たちと、多くの時間をすごしたんだ。

 

でも、「あいうえお」が喋れる前の、発語ができる前の、たとえ0歳の赤ちゃんでさえも

生まれた1日目から

 

自分自身の快・不快が分かるように

 

空腹なら泣くように

 

抱きしめてくれる親の手から離れたら不安なように

 

健常者と言われる人たちと「同じような発語」ができなかろうが

「同じようなコミニュケーション」ができなかろうが

 

「心がない子」はいない。

 

ひとりずつにみんな、すきな時間のすごしかた、好きな授業と苦手な授業があったし

 

(「外の散歩が好きか嫌いか」、「プールが好きか嫌いか」、

「絵本を読むのと、音楽を聴くのと、より、どっちがすきか」

「静かな音楽がすきか、ポップやロックなどの元気な曲と、どっちがすきか」とか)

 

給食のすきなメニューと嫌いなメニューがあったし

 

だいすきな先生と

おっかないからきらいな先生といたし(-▽ー)(うん、わたしもいたよ)

 

「Aちゃんは、

他の子のときはしらんぷりなのに、

Bちゃんがくると、声が解るんだね、笑ってくれるよね!

きっと、大好きなんだね!」

という、「だれちゃんとだれちゃんは、特に仲良し」という、特別な仲良しコンビがあった。

 

それで、わたしは、

「特別支援学校を卒業したら、そのあとどうしたらいいんだ、、、、」

と、進路に当時ものすごく悩んでいたけど

 

「生きられるよ。

きっとだいじょうぶだよ。

卒業しても、

だってほら、ぼくらだって、いるじゃん。

困ったことがあったらいつだって会おうよ。

友だちがいるじゃん。

ぼくらだって、社会の中に、一緒に出て行くんだよ。」

 

 

たくさんの発語はないまでも、いつも、自分に、よりそってもらってる気がして

いつも、力をもらった。

 

「この仲間がいるから、

社会に出て、

たとえばいつか生活や、会社とかで、

まわり全部全員健常者で

自分だけ、たったひとりが車いすっていう状況になったら

ちょっとくらいハブにされたり、いじめられるようなこともあるかもしれないけど

ぜったいに負けないでいよう。」

と思った。

 

で、生きてみたら

「障害者」だって全員が人間でみんな違うように

「健常者」だって全員が違うんだから(^▽^)

 

いじわるな人なんかより

すてきな人のほうが、人数としては遥かに多かったしね。

 

障害を持つ子が一人いることで

養護学校の先生に仕事があるの❤

 

病気の当事者の人がいることで

お医者さんと看護師さんに仕事があるの❤

 

「柏手を一回打ったらこの世のすべての人の

すべての障害や病気が治りました!

今日から全員が健常者です」

ってなったとするじゃん?

 

でも、「どっちがかけっこ速い」とか「どっちが算数できる」とか

「健常者同士のくらべっこ」って、あるよね?

 

じゃあ それだとまだ身体や知能の優劣の劣で悲しむ人がいるから

 

「もう一回柏手を打ったら、今度は、その健常者同士の能力差がすべて消えました!

身長体重、身体能力、得意不得意、全て平均、

全部全員、み~んなおんなじ!!ほーら、しあわせでしょ?!」

っていう

世界ができたとするよね?

 

・・・ ・・・なんか、それもう人間じゃないよね?

なんか。。。それ、ロボットの軍隊。

「人と人が、出会い、知り合ってゆく醍醐味」までが、消去されてしまってるじゃん?

 

できないことが多い人は

できないことが多いほど

「その人が存在していることそのもの」で

周囲の他者に雇用を生んでる。

 

講演でも言ったけど

わたし一人が歩けないことで

年間10人

10年で100人の、介助分野で働きたい女性個人の雇用、働く女性への収入を生んでる。

 

凄い数でしょ?18年の一人暮らしで延べ200人。

 

世の中はそうやってまわってる。

 

それで、そうやって、「今、障害や病気の当事者の人」がいることで

進歩、発展、整えられてきた

医療や介護の技術や、法律は、

最後はね、

 

いつか高齢になったときの、「あなた自身」に必ず還る。

 

わたしが今書いたり語ったりしていることも、

「今、障害のある、わたしたち専用」と思って

発信をしているわけじゃない。

 

いつか、私以外の、誰かへも必ず還るから、書いているんだ。

 

わたしの親が、車いすになったときかも。

友達のお父さんやお母さんが、病気や杖や車いすになったときかも。

 

だれかへ還る。

 

最後は、いつか、わたしのまわりの、「健常者の友達」にも還る。

すべての健常者にあてはまる。

 

世の中には

ただただ、いろんな人がいて、

 

「自分と違うから殺し合う」のではなくって

「自分と違うから生かし合う」ことで

「循環」してる。

 

そこ(循環)に<入っていない>人は

 

世の中に だれも ひとりもいないし

 

何もできない人も

何もしてない人も

 

この人は死ぬべきなんてマウント取られていい人も

 

マジで肚の底から思うけど

 

一人もいない。

 

いるはず、ない。

 

だけど多くの人が

 

「ただ、自分自身であること。で、できる仕事」をしてなくて

 

ゼロ歳のときにはぜんぶわかってるのに(4歳くらいまでたぶんわかってるよね)

 

1年ごとに歳を取って

 

人と比べて速さががどうとか

目に見える今月の給与がどうとかで

「比べる病」に羅漢しはじめて

 

ちょっとだけ 忘れやすくなっているだけ。

 

これからは、価値観が大反転をする時代。(いや、もう多分何年か前からしてるけど。)

 

「その人がいること、存在、そのもの。」が

だれにでも

 

「その人の仕事」であり、生産性に足る時代。

 

これ以上の良い言葉がどうしても思いつかないから書くのですけど

金子みすずさんの詩のように

『みんなちがって みんないい』

を、たましいのどまんなかに置いて、世の中づくりに参画してゆきたいと思うんだ。

車いすも、杖も、すべて、ぜんぶ、

『生』で姿を見せられる、半径5メートルの世界から。

 

山口まち子さんの、大きくて優しくおおらかな手話、

優しくてチャーミングなお人柄のにじみ出る楽しさも、お客様から大絶賛。↓

 

 

交流会も、残ってくだったかたがたくさん。

ご自身やご家族が、障害や病気をおもちのかた、

 

わたしのように、生活の一部に生活保護を受給していて、

それによって手ひどい差別を受けた体験者のかた。

(今、現在進行形で、困っていらっしゃるかたも。)

 

東日本大震災や、

九州の豪雨災害、

それから、やはりやまゆり園殺傷事件のあとなどから、

 

障害をもつ人が取り残されない社会を作りたい と

書籍出版や映画製作の関係者、マスメディアのかたも。

 

 

 

他主催様のコンサートや、大きめのコンサートでは

歌いました!CD売りました!帰りまーす!というかんじで

前後が片付けなどもふくめて

ほんとうにバッタバタの大忙しのことが多いですが、

今回、久々のかずちゃんとのほぼ共同主催で(わたしがサポートに入るような形)

おひとりずつとお話ができたことがとってもうれしかった!!!

もっともっともっともっと聞きたかった、みんなの話を、

わたしが、聞き足りなかったな。

その意味では,また第2回やりたいなと思ったよ。

 

 

握手ができるどころか(-▽ー)

「自分からとびついていくアイドル」だっこさん❤

 

 

 

 

車いすのかたもお越しくださり

遠くから近くからほんとうにありがとうございました!!

 

こちらは後ろ3名が、スタッフチーム(!)

受け付けのみゆさんとひっしー、

ものすごくすてきな、歌詞の背景イラストスライドや、お話し部分のちいさいころの

わたしとかずさんのスライド写真をまとめて作ってくださったゆかりさん。

 

手前が、手話のまち子さんと、ギターと音響サポートの奥野裕介殿。

 

生きる中で、

いろーんなことがあったけど

人生のどんなに辛いときも

 

 

こころの中に居続けてくれた、この子たちを

自分たちで

殺してしまわなくてよかった。

 

「わたしたち自身を生きること」を

いのちを

投げ出さないでよかった。

 

 

よく、会えたねえ。

わたしたち。

 

人の縁ってなんじゃろ?

そんなことも、ちょっと感じたな。

 

また会おうね。

 

お越しくださった皆様

「会場には行けないけど応援カンパするね!」と

開催費応援くださったみなさま

 

小さくて、手作りで、とっても濃くて、良い1日ができました。

 

のんびり続けます。

 

だっこさん、今回は講演がメインでしたが、

コンサートや、ライブハウスやカフェや病院でもうたいます。

だっこさんのうたと奥野殿のギター、

わたし単独のライブでも、

かずちゃんとふたりを呼んでみたいでも、

「うちの街、うちの学校にもきてー!」のご依頼、とってもうれしいです。

 

お問い合わせは、yuhasagiri☆gmail.comまで、お気軽に。

(☆マークを、@マークに変えて下さい。)

 

ご来場、応援いただきましたみなさま、本当にありがとうござました!

※写真たちは、小髙剛さん、

他、お越しくださった皆様に撮影いただきました。ありがとうございます!

 

 

めざせ100人!ご入会絶賛募集中!
(月1000円の年会費制。障害の有無や種別、
住む場所の距離をこえて、ボーダレスな仲間のシェアハウス的集いの場です)

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朝霧 裕エッセイ4冊目。

車いすでの東日本大震災時、帰宅難民の体験。

在宅生活での家の中での虐待の体験。

「自分を生きたい」すべての人に届きますように。

「バリアフリーのその先へ!-車いすの3.11-」(岩波書店)(1900円税別、amazon等では中古827円他)