みなさんこんにちは☆

おげんきでおすごしですか。

ゆうべ


心身調律セラピスト岡田哲也さんリブログ記事
”20代の頃よりスタイルが良くなってきてる理由。”
http://ameblo.jp/cafedudacco/entry-12277676293.html


を 書きながら


ごはん、、、ごはん、、、ごはん、、、ってずっと考えていたんです。


ごはんというか 食事というか 栄養素というか。


(「食事」というテーマがわたし、好きみたい。)


でね、「食事について」で、忘れられないことが実はあって きのうは 書きながら


自分の中のとても大切な1ページだから


書く勇気が出しきれなかったんだけど。


わたしは、


進行性や難治性の障害で、10代や20代の年で、同じような障害の友達、、、

養護学校(今で言う特別支援学校)の同期や先輩や後輩がたくさん亡くなってゆくのを

間近に見ながら学生時代を過ごしました。


それで、やはり年若くして亡くなった友人のお母さんが


亡くなった年から 月日が経った

あるときお会いしたら


「入院中、うちの子は、お菓子が好きだから

ケーキが食べたい 

ドーナツが食べたい

プリンが食べたいって言うのね

でもお医者さんのご指示があったから絶対にだめだと思ってあげなかったの。


でも


こんなことなら


なんだって食べさせてあげればよかった!!!」


っておっしゃったんですね。


その瞬間ね


(ああ わたしは この今日を

一生忘れないな)


と 思いました。


それで 


そのとき思ったのは


「その人の今生きているこの瞬間」に対しての


「正解」っていったいなんなんだろう


ということ。


それは


だれが決めるのが「正しい」んだろう、と。


凄く、あれはわたしの価値観を作った言葉であり、日だったなと思い出します。


たぶんそのときわたし


「医学的権威」みたいな人が言うことはすべて正しいと人は思いがちである

ということへの反骨心と 友達が亡くなったことへの悔しさと

色々な思いがたぶん相まってのことなんだけど


「正しさがなんだよ。」


って たぶん 腹の底から思った瞬間だったんでしょうね。究極論だけどもね。


時に


お医者さんや看護師さんや<医療>、<治療>という視点から見れば


「それをすることで寿命が1日縮んじゃうかもしれない」


という意味では


「大間違い」で「ダメなこと」で「不正解」だったとしても


本人が今日の今、命懸けで望むことを周囲が意を汲んで叶えるんだったら


たとえどれほどの病気や障害の当事者の望みでも


むしろ 


だからこそ


何を食べようが どうに過ごそうが


ほんとなんだっていいんじゃないか


って


思ったんです。



「最期ぐらい」


っていう言葉が(ほんとに忘れられなくて)

自分の中にリフレインして出てきたときに


「最期しかやらねーんかい?(-▽-)」


っていう自分に対するツッコミが強烈に来てね。

 

わたしは、ごはんを、楽しもう、と。


せめて

食べられるうちくらい


好きなものを

うまいって感じながら食べよう、と。


うつになった時期、幾年か忘れていたけど

書きながら ゆうべと今日で 

「あ、そうそう、そうだった」

と さらに鮮明に思い出してきたよ。

人生は

 

楽しんだもん勝ちです。


それは他者と自分とを比べての勝ち負けじゃなくて


今この時間

 

今日、この一日 を

「好き」「おいしい」

「楽しい」「うれしい」に囲まれて過ごせるか


「ガマンや妥協」「愚痴や恨みごと」に囲まれて過ごすのか


それをもし


「自分A」と「自分B」として 


「どっちの自分がいい?」と


「自由な選択で選べる」のだとしたら


選びたい答えは決まっています。



食事に限ったことではなくて、


「わたしが、今、どうしたいか」


よくよく 身体と心に聞いてみる。


毎日は、この繰り返しです。


「ただ栄養素を取ればいい」というだけだったら点滴でもサプリでももう

なーんでもある現代。


でも人が 一も二もなく


「おいしい!!!!!」


って思わず口に出して言うとき、


それって栄養の要素に対して言っているわけではないんですよね。


「このミネラルは新鮮でおいしいわ!!」とか


「このビタミンB1がおいしいのよー!(・◇・)」


ってあんまり言わないもんね。


そうではなくて、見た目や味はもちろんのこと


美しい柄やかわいい食器

 

ロケーション 


だれと食べているか


だれが作ってくれたか


時によっては野菜やたまごの生産者はだれか まで(・v・)

顔が浮かぶ人だったらめっちゃ心がほっこりしませんか

( ※注 生産者がわかんないとダメだか「そうすべき」という話ではない)


とにかく「食事の時間」を作る要素


「そのすべてが食事」で、


よく

「病院の食事は味気ない」
って聞くけど(いや、味気ないよね、、、

めっちゃおいしいところと、たとえば入院費が同額くらいでも

格差があるらしいのはなんでだろうね。)


それはやっぱり いつもは家族とごはんを食べているのだけども

入院中はひとりで食べなきゃいけなかったり

食器がメラミンの全部白かクリーム色の柄のないあれだったり

(なんとなくイメージできますか)


色彩の足りなさ

ワクワクのたりなさ


でもあるんだよなあ と 思ったりしています。


(病院食のこととかも書きたくなってきちゃった!)


究極、


病院

介護施設



「どこにいたって」


まずいよりはおいしいものが食べたいし


極限の

「マジで、生きるために食べろ」

みたいなときこそ


食への「ワクワク感」ってほんっとに大事なんだよなあ、、、、と、


わたし、たぶん、「食」であり「食に付随する幸せについて考える」ことに
けっこう執着があるので、


「『おいしい』の中身」ってなんだろう って考えていることがすきです。


でも実際にごはんを目の前にするとなんでもうまいから

食べてるときは忘れちゃうんだけどね(-▽-)


そうそう、話がぶっとびますが、

きのうたまたまテレビを見ていたら、

NHKのハートネットという番組で


車いすの社会福祉士である海老原宏美さんが(↓この本を書いた人ね)

まぁ、空気でも吸って-人と社会:人工呼吸器の風がつなぐもの/現代書館
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ご本人が栄養を胃ろうでとっていらっしゃるんですが

(人工呼吸器も使っているし)

ガンガンにお酒が飲める姐さんのようで(-▽-)

まさに「住み開き」って感じでご自宅で不定期にすっげー人数の

ご飯会をしていらっしゃるんですが(アパートで大丈夫なの??ってFBを

そーっと見ています、そのうち押しかけまする)


「胃瘻(いろう)Barを作りたい。」


とおっしゃっていて、

これクラファンとかはじまったらわたし、ライブや講演でいただけるお金とか

全額入れちゃうなと思いました。


人生で胃ろうになることがあったら(なくても)

わたしが一番通う客になるでしょうから(-▽-)


食事と同じで

「難病の人がお酒飲んでいいの?!」

とご心配なさるかたも大いにいらっしゃるでしょうが


治療のために絶対のドクターストップが出ている、という状態でなければ


別にいいんじゃないの?


だって自分で決めることじゃん?


(プラス、もうどんな人でも最末期はもうわたしはなんでもいいと思うよ。

「本人の幸せ」が一番。)


と いうわけで


だっこさんも赤ワインが好きです。


(難病でザルですっていう人はまだ会ったことないけど)


食に関する

「あれダメ、それダメ」

「それはこの病気になるよ?それはあの病気になるよ?!」

「あれは危険なんだよ?!」

敵視、敵視、敵視、、、 、、、の<ストレス>こそがこわいこと。


と、いうわけで

昨夜に引き続き


うまいと思えるうちくらい


せめて、好きなものくらい食え(-▽ー)


というお話しでした。


<ごはんの話し>は(エッセイの本を読むのとかも)


本当に好きなので、また書こうかな、


ごはんシリーズ。


それではみなさま 今宵もおやすみなさいませ。


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