みなさまこんにちは。

お元気でいらっしゃいますか。


「飲みと下見と。」

http://ameblo.jp/cafedudacco/entry-12216702251.html


この記事ね、UPするとき すっごいザワザワした。

「すっげー、ザワザワした」

って書いたほうがいかも。


それはね、エッセイにも書いたけど、昔、

ライブの打ち上げで仲間たちとごはん食べたら

「生活保護を受けてる人が外でごはん食べるとかだめでしょ?」

「歌とかそういうのはふつうに働いてからにしなよ。」

って 昔いた介助さんから叱咤するように言われたことがあったから。


ほんと、それから、外出ようとしても体が震えちゃったり。


地獄の時期があったよな、って、ふと、思い出したから。


今となってはこのエピソードも「古さ」しか感じないけど


当時のわたしは(うつだったから考えることしかできなかったし)

「『ふつうに働く』とは何か?」ってコトをずっと

もうこれ以上考え尽くせない、ってところまで考えていた。


いま振り返ると他に何にもできなかったからこその

好きなだけ好き放題自分の価値観について考える時間ではあったよね。


でね。

まず「ふつう」なんてない。

これはカンタン。

人間は個々に身体も心もみんな違うんだから。


じゃあ「働く」ってなんだ?


って思った時


望まぬ仕事に

『やらされる』気持ちで従事して

「別に言われたことだけやってりゃいいし」


、、、って ヤケクソの捨て鉢みたいな

働き方に従事して人生を終わっていくのって


なんだかこれはものすごく凄まじい命の冒涜のような気がした。


だって人は死ぬから。

しかもけっこう若くしても死んでしまうことが「ある」ということを

わたしは繰り返しまじかに見て知っていたから。


考えても考えても

「ふつうに、働く。」

という日本語の意味がわからなかった。


なぜなら、歩けても歩けなくてもどっちでも同じで

わたしはきっと 歌 とか 世界一周 とか 宇宙の神様にお使えします とか

ある日突然突飛なことを言い出して実際にやりだして

そして「書いた」だろうから。


わたしにとっては

「今日のこの命を今日の使いたいことに使うこと」が「ふつう」だった。


歌うことも「ふつう」だった。


重度障害者だけど健常者の友達がいることも「ふつう」だった。

だってセンセーショナルなことであるというほうが なんかおかしいじゃん? と思ってた。

だって

友達は友達だ。

健常者の友達も障害者の友達も どっちもいっぱいいるよ?

80代くらいまで友達同士でいたら今歩ける友達だってどうせ過半数杖だし(・v・)

90代まで友達でいたらもしかしたら全員車いすじゃん?(・v・)(←見たい。ゾクゾクしちゃう☆彡)


階段があったら行かない じゃなくて

階段があっても行きたい と思うのも「ふつう」だった。


それで

わたしが生きて人の前に身を晒すことと

どこにでも行くことと

「それを全部書くこと」が


私にとっての 私にしかできない仕事 だから 「働くこと」だと思っていた。


でも そんな日々が叶っちゃったらそれはわたしにとって「最高に幸せな日々」なわけで。


要介護者や生活保護の当事者が

「幸せであってもいいんだ」なんて <世間様>はなかなか認めない。


、、、、と 私は古傷と石頭で強固に思っていた。


要介護者や生活保護当事者は

(わたしの場合は要介護者「で」生活保護当事者になってしまうのだけど)

「不幸で悲壮で人前ではしみったれた洋服を着て

日陰に生きていなければ世間様から応援してもらえないんだ」


というふうに 自他と世界を 認識していた。


だからこのブログにも 友達みんなで上野にお酒を飲みに行ったよなんて


書いたら日本中に嫌われちゃうんだ


というくらいに けっこう 記事アップしてみたら


「漠然と思う」とかよりも「強く」思っている自分を知れて びっくりした。


あー 今もわたしまだ自分縛ってるんだ、と思ったんだ。


『不幸中毒』。


これは子宮委員長はるちゃんのことばなんだけど


「自分は『かわいそうでいなきゃ』世間様に応援してもらえない」


あと 不便でいなきゃ とか

苦労人でいなきゃ とかもそうかな


わたしも 


「わたし今 楽しんでいるし幸せですってブログに書いちゃいけない。」


って 強力に思っていた不幸中毒。


生活保護の当事者が

幸せであっちゃいけない。


「素敵な歌姫」 でも 「苦労人」。


「素敵な歌姫」 そして 「超幸せ」。


前者でいなくちゃ 世間様に応援してもらえない って


まだ 今でも 思っていたから さっきの記事UPしたときザワついたんだな。


「こんな幸せそうな写真を載せていのかしら?(私は幸せであっちゃいけない。)」ってね。


でも。

だれだ世間様って?


「幸せになってはいけない人」なんて いるはずがない。


「幸せであってはいけない人」なんて そもそも いるはずなんかないのに。


エッセイにも、生活保護制度や障害基礎年金を受給していることを書いたり、

その身の上のままで だからこそライブをはじめたり


生活や 身 そのものを 人前にさらけ出してきたわたしは


「ふつーはそこんとこ隠すよ?」

「そこまでは書かなくってもいいんじゃないの?」

っていうことも


もしかして 話してしまっているのか


感覚ってそれぞれだから「正解」ってわからない。


だけど、少なくとも、ここまできて、貫いて来たら、今、


障害者だから、制度を使ってるから 

だから自分を攻撃してくる人だらけ、敵だらけだと思っていた

「わたしの世界」は


味方だらけ 好きな人だらけになってきた。


それどころか


「だっこさんにもっともっと突き抜けてほしい。幸せになってほしい。」

「だっこさんが幸せになることを手伝いたい」


と 声援までもをいただけるようになった。


うれしくて、


この「生きることを書くこと」がわたしの働き方であり仕事です、と


堂々と自他に言えるという意味で


「豊かな人生」を歩みたいと思う。


「豊かな人生」とは、「貧困でない人生」である。


貧困でない人生 とは もちろん経済的なことだってあるけど

「発想が貧しい」とか

「感性が乏しい」とか

柔軟性や心の豊かさもある。

むしろ、お金は「結果」で、心が「源泉」じゃないか。


今日の今の自分を(喜怒哀楽、行動やチャレンジまるっとぜんぶ) 楽しめる


そして 「書ける」という豊かさを持っていたい。


私の「豊かさの源泉」は書くのがすきで 歌が好き ってことだ。


、、、もっと早く楽しめばよかった。


これからは、

「わたしいまこういうことをがんばってます」っていうことだけじゃなく


楽しかったらじゃんじゃん書こうと思う。


ただ自由に生きたくて。

だってわたし、人に生まれてきたから。


だから、今の時点で

「今までやっちゃいけないとか、書いちゃいけないとか、タブーだと思っていたこと」


その取り決め、自分への呪いを、ひとつひとつ、解いてあげようと思う。


道は長いけど 生きるって やっぱり 楽しい。


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