みなさまこんにちは!

夏ですね!

まだ梅雨の内だけども今日は暑いね!!!


わたしは、手足が縮こまる冬から

のびのびと いのちがのびてゆくようで

春夏が、だいすきです。


ところでとってもシェアしたい記事を読んで。

だっこブログからもご紹介します!


だいすきなだいすきな藤沢あゆみ先生のブログ記事。

”頑張るを顔晴ると書いたらやる気になるの?「がんばるってダメですか」”




わたしは、身体に障害があったから、

「障害に負けないように、がんばって!!」

「頑張っていて、えらいわねえ。」


番外編として

「健常者だってみんな必死で頑張っているんだから、

あなただって遊んでないでもっともっと頑張りなよ!!」

そういうふうなのもありました。

(※これ↑は、また、書く。)


そんなふうに、「頑張る」ということばがいつも身近にあって、

「頑張る」、「頑張れ」、「頑張って」、、、


「頑張る」と、縁の深い人生でした。


そのことばを言われて

すごく励みになることもあれば

「わたし、今、こんなに頑張ってるのに、なんで、まだ頑張ってて言われるの?!」

と 思うこともありました。


あゆみ先生のブログのように

「こんなに頑張っているのに、なんで、

まわりの人はどんどん成功しているのに、

わたしは、結果が出ないの?!」

そんなふうに、音楽のことでも、執筆のことでも、

とことん落ち込んだり、

人に狂うほど嫉妬したこともあります。


もうほんと、眩しい人が眩しすぎて見えないよ

嫉妬で目が見えないよ

みたいな状態です。


その渦中には、自分への失望や嫉妬で

わからないのだけど、(自分が見えていないのだけど)

まさに、頑張り方が違う(-▽-)です。


もうすぐに、約1年くらいになるのですが、

「わたしは障害者なんだから、がんばらなくちゃ」

「人様にお世話になって、生かしてもらっているんだから、がんばらなくちゃ」

そんな焦りが、ほんとうに呪いみたいになって


書きたい

でも書けない

何を書きたいかもまったくわからない

もう自分がわかんない(;▽;)


そんなふうになって、藤沢あゆみ先生のビジネスコンサルティングに駆け込んだことがあります。

現代の駆け込み寺です(・v・)

それは、ビジネスコンサルティングというよりは、心のカウンセリングのような時間で、

わたしはあゆみ先生の前で


「私、もっと売れたい。

私、がんばっているのに。

早く、次の本が出したい。

なんでわたしだけできないんだろう。

このまま終わりたくない。

でも、何を書いていいかわからない。」


と、号泣するばかりでしたが

あゆみ先生は

「だっこちゃん、大丈夫だよ。その壁は、やりたいことがある人、

ものを書きたい人には、必ず何度でも来る。でも必ず抜けるから。

その今感じている感情がぜんぶ、

今日のことがぜんぶ、必ず、宝物になる日は、来るんだからね。」

と、繰り返し、励ましてくださいました。


今思えば

そのとき、一番わたしががんばるべきことは


「心が疲れているんだから、休め。」


だった。

それからね


パソコンの前にばっかり座ってないで

たまには

違うことをして、あそべば?ってこと。

違うことも、「試せば?」ってことだったと思う。


SNS見過ぎドキドキ


ってこと。

「がんばる」が、自分の中で、漠然とした呪いだったときは、

もうまったく心も身体も 動けない!!

仮面うつ病?ってこれかなあ?

という状態だったけど


休むことをこわがらないようにして↓


気が済むまでなんにもしないようにして↓



去年の秋ぐらいから、自分の好きな作家さんの講演とかに

パソコン画面からブログを読むだけじゃなく、

出かけたりして↓


「今日の今、これがしたい!!、って、思う、今日のしたいこと」から、

やってみよ!!

と、だんだん、なって。↓


楽しいことを心が楽しいと思うと、

「このことを、今日はブログにも書いてみよう。」

と思うようにまたなって↓


気付いたら、

「頑張らないと、書けない!!」

「書くために、頑張らなくちゃ!!」

じゃなくて、

「書くことが、楽しいから、書きたい。」

になってた。


去年の一番苦しかったときの私にとっては、

「がんばる」が、

「気負い」で「呪い」だったの。


でも、今は、

「自分が楽しいから、書くことも、生きることも、楽しい。」になったの。


公に

「わたしがんばってないよ」っていう人も

いろんな時期があって

「今ここが、人生の踏ん張りどころ」っていうのは絶対にあって、


でも、たとえば、ブログだったら、

「いいことを書かなきゃ。」とか

「立派なことを書かなきゃ。」とか

「アクセス数をあげなきゃ。」とか、


反響を気にする気持ちが先にあっての、

「苦しく、がんばる。」から


「自分が楽しいから、書く」に変わると

自分ではその姿が人に「がんばってると映るかどうか?」は、ぜんぜんわかんないけど、

自分は、楽しい。


それが、結果で、だれかの勇気になったりしたら、


「わたし、頑張らなきゃ!!」って

先に思いすぎなくっても


「頑張ってるね」って

まわりから、「先」に、言われるようになってくるし、


そもそも

「人からなんて言われるか」

が、もう、気にならなくなってくるんです。


わたしは、今。


去年だったら、キライ、って言ったかもだけど、

今はね、

「がんばる」ってことば、すきです。(・v・)


たぶんそれは、「苦しく、がんばる」を、抜けたから。


あなたは、

「がんばる」ってことば。

「がんばれ」ってことばでも。


すき?

きらい?


キライ!!!もう聞きたくもない!!!、って、思う時は、

ものすごくものっすごくもうがんばってきたことがあったから、

「もう、ほんとうに、休め。」っていう、サインかも。


ごく自然に、すきd(・v・)bって思うときは、

そのまま、こころの伸びゆくままに、GO~!!のとき。


わたしは、とってもとってもたくさん「がんばれ」を言われてきて、

それが言われる側の心の重圧になることもあるっていうことを

体験してきて

だから 自分から 人には あんまり言わないけど


今にして、

がんば『る』


は、すきなことばです。(・v・)


そのことばと相対したときに、

<自分の心の調子のバロメーターになることば>

と、思っています。


あゆみ先生が、アンパンマンを思い浮かべるように、

わたしも、

自分の人生を生きることで大活躍してる人、


それから、作家とか、アーティストとかでなくっても、

一日を、丁寧に生きていて、素敵だなあと思う人、

家族との生活を だいじにすることを がんばっている人 


今日一日を 息をして ご飯を食べて 生きる そのこと自体に

「がんばる」という ことばの魔法が必要で

「一日、生きる」を、がんばっている人


いろんな、好きな人の姿が浮かぶ。


ほんとうのほんとうは、

がんば「る」も、がんばれ、も、

優しさも内包した言葉なんじゃないかなあ、と、思っています。