きのうblogに、「下流老人 一億 老後崩壊の衝撃」(朝日新聞出版)の著者で

ソーシャルワーカーの藤田孝典先生が、

「たけしのテレビタックル」で、

「生活保護を受給している人がパチンコをしていいのかどうか」について

生活保護の受給当事者の立場に立って議論してくる!!って、facebookでおっしゃっていたから

「私も出たい!!!」って書いた、というお話を書きました。

ここに↓ 「きゅうりとバラ。(だからわたしは幸せを選ぶ)」

http://ameblo.jp/cafedudacco/entry-12165461250.html


でね、

その中に、生活保護を受けて生活している人のほとんどは、

生活破綻するまでギャンブルしている人でもない

悪意を持って不正受給をしている人でもない

私、「生活保護を受けていること」を理由に、鬱病になるまで人からいじめられたこともあるから、

「生活保護を受けるのは恥ずかしいこと、悪いこと、不正受給とかズルいことばっかしてる人たち」っていうふうに、<生活保護を受けながら生きること>を、

スティグマ化しないでくれよ、どうか、メディアが。


その人がその人の身体、経済状況を含めて、ただその人として、堂々と。

生きられる社会が開かれること(が私の望み)。


と、書きました。


これを、本当に泣けてくるほどわたしは切望していて、これを、共鳴してくださる方と、ともに、叶えるために、今生はこの世に、この身体とこの生でいるんだと思う。


と、書いた。


でも、なんかね、一夜あけたらざわざわっとしてさ。


「どうか、メディアが。」っていう、

<お願いのお申し出>みたいな言い方をしたのが自分で気に入らなくなっちゃて。

凄まじい違和感というか。

「あれ、このことば、違うな。」って。


まず、きのう書いた記事の「メディア」ってテレビのことね。

今、本当に考え方は人それぞれに多様化をしていて、(あくまで、わたしから見て)過激な考えの方もいてマスメディアのことを「マスゴミ」ってネットスラングで書く人もいるじゃない?


でも、わたしは、テレビはテレビの、新聞は新聞の、役目があると思っていて。

どうやったってスマホできないけど新聞読めるおばあちゃんとか、病院の一室からテレビ見てる人口数とかさ。役割とニーズがあるだけじゃん?

私を人生の一番最初に「不特定多数の人の前に出してくれたメディア」って、テレビと新聞だしね。本当の生涯の恩人のうち幾人かは、「テレビの人たち」だしね。

局まで言うと、テレビ埼玉とテレビ朝日(^▽^)

だからね、わたし、テレビメディア滅びよとは思ってないのよ。


長期入院生活とかさ。テレビがないと、この点滴してて動けない1時間の時間が、やりすごせない、っていう経験、肚からあるし。


でも今、テレビメディアに、

「もっとわたしたちのことを取り上げてほしい」とか、

「この困難に立ち向かう当事者のことを、もっとこういうふうに取材してこう放映してほしい」とか、

思うことがあるとするじゃん?


私だったら

「生活保護制度を使って生活をしている当事者」

「ウエルドニッヒ・ホフマン症の当事者」

「自立生活支援法で、24時間の介助を使って生活をしている当事者」とか。

だれでもが、何がしかの「当事者経験」だったり、

「社会制度に対して、自分が利用して生活している立場から、どうしても伝えたいことがある」 という、

「自らの経験から得た伝えたいこと」を、体の中に抱えているわけだよね。

その人まるごとひとりぶん。


子を持つお母さんだったら、「保育園増やしてほしい」とか。

ある、子供をもつお母さん、たったひとりの個人、が書いた

「保育園落ちた、日本死ね。」という言葉が、

ほんとに、切迫した叫びだって察知した「同じ体験を持つ人」が、

ほんとに全国にたくさんいて、今、確かに社会を動かそうという力になっていたりとかね。


思うこと、言いたいことがあるんだったら、

「あなた様がどうかなんとかわたしの感性の気にいるようにやってくださいませんか」っていう、人任せ、「お願いのお申し出」ではだめなんだ。


「『お願いの福祉』を変える」

「これは自分だけに見えていると思われるものごとがあるんだったら、その当事者が自分で語れ」


私はそれを講演でもこれまでの本でもここでもずっと書いてきたのに

「生活保護でも、その人達なりの心の幸せをもって、その人達なりの普通の生活があって、ただ生きているだけなのに、生きることをスティグマ化しないでほしい、だからそれが伝わるような番組を作ってほしい」 と、「テレビのメディアに、<お願い>しちゃって、言いっぱ。」の 自分をすごく

 「あれ?なんか違う。」って思った。

何度も何度も読み返しているうちに。


そういうふうに「影響力の大きなメディアの方々、お願いします」ということだって、

大事なことかもしれなけれど、

「じゃあ、そのお願いしているあんたは、テレビメディアというツールからしか、言っていくこと、伝えていくことが、できないの?!」 っていう話し。

パッカーン!!!って頭割れたよ。


今の時代、テレビやラジオや新聞もメディアだけれども「個人」もメディア。


ブログがあればいいじゃん。

ここから書けばいいじゃん。

自分で言いたいことは、自分でただ書けばいいじゃん。


って、ほんとに、胸の中に、自分の声がした。


当事者が当事者としてオンランリアルタイムで語る。

第二者、第三者の、編集の意図、無し!!!

なんかね、

「ああ、これがブログの楽しさなんだ。」って、ゆうべのブログ100回くらい読み返して

「あれ?この違和感なんだろう?」

「あれ?この書き方わたしらしくなくね?」

「なんか、モヤッとするこの読後感はなんでしょう」って 思いながら、

あ。そうか。

「言いたいことがあるんだったら、まずは、ここから自分で書けよ。」って、

わたしはわたしに言いたいんだ、って、思った。


だって書けるんだから。

、、、今、すごい、時代だよね。


自分がオンラインリアルタム&ダイレクトに言葉を発信したものこそ、

「純度1000%の、わたしの言いたいこと」なんじゃない?! って思った。


そして、それをやっぱりこのまま、脚色無しの演出なしのまま、キャッチしてくれる人が読んでくれているんだったらそれ以上のパワーってないじゃん?


「生活保護だからって全員が全員ギャンブル依存症じゃないんだからね?(←当たり前だけどね。)」

とか。


「しかも依存症ってとこまでいったられっきとした心の病気だから、必要なのは悪口じゃなくて、なぜそこまでに至るまで精神が追い詰められてしまったかを、解きほぐしてゆく治療だからね?」

とか。


「ウエルドニッヒ・ホフマン症だからってみんながみんなかわいそーですぐ死んじゃうってわけじゃないんだからね?」 とか。


たとえば、災害被災地の、被災者の方々の、映され方とか。

たとえば、難病を持つ人や、障害者の人の、映され方とか。


なにかこう 「テレビは(演出の目が入り過ぎていて)何にもわかってないっ!!」 みたいなさ。


言いたいことが もしもあるんだったら 脚色なしの演出なし、

純度1000%の自分の言葉で言って

それをさらに、純度1000%のままでキャッチしてくれる人と、

つながって、そのまま広めていくほうが、 楽しいじゃん?


「表現の根源的な、自分の伝えたいこと」

を、人に「もっとああしてよ!」「もっとこうしてくれたらいいのに!」

って、『待ち』の姿勢でいたら、だめよね。

それって、『不満溜めながらやってもらうの待ってる』だけじゃん?


世の中にこうなってほしいんだとか

今このことをメディアに取り上げてほしいんだ!とか


その「自分の目には見えていて

だけど 多くの人はまだそのことを知らなくて

だからこそ 多くへ知ってほしいこと」

「強く知らせるがために、だれか人に、何かしてほしいこと」

それこそ

「表現の根本」。


そこだけは、自分の口でしか言えないところ。

他人の口では、言えないのよ。


そうそう、きのうの文章の「違和感」は、

「テレビ見ながら、『テレビはなんにもわかってないよね!』って

おせんべ食べながら茶の間で文句言ってる人」の要素が 

5グラムくらい入っていたから自分にモヤッ!!っとしたのでした。


だれもが何かの当事者で。


我は我が人生の当事者。


自分で言うほうが、楽しい。

人の口に言ってもらうのをただ待っていることよりも。


「これを、本当に泣けてくるほどわたしは切望していて、これを、共鳴してくださる方と、ともに、」

って書いたのも、なんか、モヤッ!!!だった、自分に。


ほんとに泣くことだって人間だからもちろんあるけど、

「でも、もっと違う書き方のほうがよかった」っていう気持ちが、読み返していたら素通りできなかった。


その人がその人の身体、経済状況を含めて、

ただその人として、堂々と。

生きられる社会が開かれること。


これを、喜怒哀楽踏み越えた上でなお、

血が騒ぐほどわたしは切望していて


共鳴してくれる方はここに書いていれば現れるし広がってゆくだろうから

キャッチしてくれる人と、呼びたい。


手段はここからでいい。



このブログ。


はい!!これが自分的に違和感のない納得の1000%の気持ちです。


あーーーーーーーースッキリした!!!!!!!!



はい。今日のブログは、おわり。(・v・)