田中みっちさん&岡田哲也さん魔法使いになるセミナーレポート、2!!!\(・v・)/


神話編 と でっかくつけましたが


セミナーのみっちさんのお話の中にあった


「女性は昔 神様だったと思う。だって 古事記や日本神話、

<神話>とも呼ばれる 日本最古の文献でも

男女一対の神様が出てきて

そのふたりが結ばれて

神様を 産み落とすのは 女性でしょ?


でも歴史の中で その力を 忘れてしまっているだけなんだと思う」


というお話が 本当に本当にだいすきだ と思いました。

「だいすき」では足らない

うまくあらわせない

たましいが ビリビリする感覚。


わたしは 日本の歴史や神話の物語の 学者さんではないけれども


特定の人種であったり 歴史の中で その時代、時代で 立場がある時圧倒的に変えられてしまう

本人の意志に関わらず

善になったり 悪になったり

神の如く扱われたり その命そのものさえ軽視されてしきたりや 戦の中にまっさきに殺されたり

そうふうに

あるときは、

神様を産み落とす存在

あるときは 蔑みの対象 生きているさえ危ぶまれる存在


歴史で立場が 簡単に 変えられてしまう 


その一番わかりやすい象徴としての「女性史」そのお話を 聞くことがすきなんだ。


なぜかというと それは

「障害を持つ人の歴史」にも とても重なって見えるから。


昔 昔の ほんとーーーーうの昔の 神話。

古事記の最初。

いさなぎといざなみ。

女性は 神様だった。

神様をうみおとす神様。

、、、っていうか「日本の国をうみおとす神様」。


神話は 古事記とか 日本書紀とか ホツマツタエとか

風土記とかいろんなのがあって わたしはそれらに 

すごく知識があって詳しくて書いているわけでは全然ないんだけれど。

(でも 海外の神話と 日本の神話 世界中に残っている

昔の昔のお話が エピソードがものすごく似ているので

出所はもともとひとつなんじゃないかとか 妄想していることがすきなの)


天照大神は日(太陽)の神様

その日の神様が 天の岩戸に隠れてしまったとき

「女神さまーーーちょっとーーー出てきてー」と、

岩戸の前で踊りを踊った、日本最古の踊り子 あめのうずめも 女神様。


このはなさくやひめ は その名からしてうつくしい 桜の花の化身ともいわれる

元祖 女性の美の神様。


※注)わたしの書いている今これは特定の宗教観にもとずいたお話ではないし、所説あります。


「宇宙から来て宇宙へ帰って行ったんじゃない?」と思われる

かぐや姫のお話も お月さまから来た人の 姿かたちは「お姫様」。


歴史が飛ぶけど

卑弥呼も女性で、国を治めたとされる、女王さま。


、、、 、、、でも、歴史のうちに、大災害のとき、いけにえとして、川に投げ込まれるのも

「こどもや、美女」だったり。


日本の歴史で、「男性上位」の時代 女性は、男性に逆らってはいけなくて

わたしのおばあちゃんの時代くらいまでは 結婚相手を自分で選ぶことさえ 許されなくて

こどもを産めない体だったら それだけで肩身の狭い思いをしたり

仕事を持つことも禁じられたり 忌諱の目で見られたり。


あるときは 神に使えし巫女さんや 神様。

あるときは 人権なんてない 厄災のいけにえ。

あるときは 戦争の時代の最弱者。

絶対的に 抑圧をされる側。


その「時代、時代に、あまりにも、扱われ方が変わってしまう。

命さえ、軽いものと扱われてしまう」


その 時代ごとの 扱われ方の違いの差が 激しすぎること が


障害をもつ人の歴史に 似ているの。


私、古事記のお話をきくと、いつも、身体の奥底が、ぞくぞくっと、する。 


古事記のおはなしの

神産み(国産み)のときに、いざなぎといざなみは たくさんかみさまを

産むのだけれど

そのなかに

「最初の子は 骨の無い子供だったので 船にのせて 川に流しました」

「次の子も 人の形をなさない子供だったので やっぱり 川に流しました」

と 訳されるのではないか?

という文章がある。


わたしはその学者さんでもなんでもない。

でもね


わたし、震災の年くらいに 

「神話とか、昔の文献って、実は今への預言書みたいな役割を成しているんじゃないか」

という、神話のロマンとか 超古代文明は存在するか?(←わたしはするとおもっている)

みたいなお話を読むことに ひととき とてもハマっていて。


その頃、5年前くらいに 古事記のこの部分を見た時


「最初の子は 骨の無い子だったので」

と 現代語訳されるのではなかろうか


という 一文を知ってしまったときに


「これ、、、わたしじゃん?」


って 思ったの。


いや 妄想ですよ?


でも なんていうか ビリビリしたの。


その描写への引き付けられ方が半端じゃなくって。


ただ、そういう一文が、出てくるんだな、って、知っただけなのに、


なんでか自分でもわからないけど 滂沱の涙が出てきたの。


「ああ、そうだ、こういうことだ、思い出したわ」って思ったの。


でも、その5年前には「何を」思い出したのか、すぱっと言語化ができなかったの。


でもね どうしても どうしても 


みっちさんのお話をお聞きしながら やっぱり その古事記のその部分が


心の中に うわーーーーーーーーーっと浮かび続けて離れなかった。


神話だからさ


「神話の本当の意味」を、

「事実がどうだったか」を、

立証することなんてきっとできないよ?


書いた著者本人が今ここに居ないんだから。


でも、もしも、もしもだよ?


「最初の子は 骨のない子供だったので お船にのせて 川に流しました」

「次の子も 人の形をなさない子だったので やっぱり 川に流しました」

と 訳すことが できるのではないか?

とされる 文章が


障害を持つ子供 とも取れる ものならば


わたしたち 障害をもつ子であり 大人は 


少なくとも神話の中では


一番最初(と二番目)にうみおとされた


マジで


神様だったんじゃない、、、?!


、、、 、、、こう 考えると 急に、自分の命の中に 物凄く壮大なのロマンを感じませんか?


神話の中では 川に流されてしまったようだけど


その子たちは ほいっと拾われて 生きていたら どう?


どんな村で どんな人達といっしょに


どんな神様として この国にきたことを エンジョイしたんだろうね?(・v・)


神話から ずっと時代が進んで


縄文時代には、障害のあるかたや高齢者を、家族や、村のコミニュティー単位で

手厚く介護し、助け合って生きたのではないか、という研究もある。


「福子」と呼ばれて 障害をもつ子が生まれると その家や ご近所の中で

むしろ障害のない子よりも大切に扱われ

「福子が生まれた家は栄えるよ」

というように 大切にされた時代の 民間伝承が 「座敷童」の発祥ではないか、

という説もある。

(※ これについては、飢饉や貧しさなどで育つことができなかった子たちのことでは?

という「福子」とは真逆の「座敷童」のお話も多数あるけどね。)


でも、「因果応報」、「悪いことをするとバチがあたるよ」という思想が、

一国の宗教観や思想の背景として強くなった時代には

障害をもつ子の身体は

悪いことをするとああいうふうになるとか 先祖の祟りとか

きっと現代からはとても想像も追いつかないような考えられないような、差別に遭って 


「この子は福を呼ぶ神様の子だから、みんなで大事にしようね」

と 扱われた時代から一転


いきなり 祟りとか呪いとか言われて

生まれてきても

世間から身を隠し 肩身狭く 家の中の奥座敷に一生涯、

いなければならなかった時代もある。


ただ、生まれてきてここにいるという、存在そのものが、

「神さまの子」から 「世間のタブー」とされてしまう。


そして、戦争の時代になれば 

「兵隊さんになれないから、役に立たない」と、

まっさきに、殺されてしまう。


とにかく、神話の時代から、時代・時代で、とても大切にされたり 

とても差別や抑圧をされたり 殺されたり、、、、


でも それでも 現代に近づくほどに


時の声を上げるパイオニアも出てきたり、、、、と、


女性の抑圧からの解放の 神話から現代まで と


障害をもつ人の抑圧から解放の 神話から現代まで とは


時代ごとに、当事者がバトンしていく精神性のような部分で


重ねて考えられる部分がとても多い。


で、やっぱり、わたしたちは、時代の荒波に、人類の起源から今日の今に至るまでの間に


何百代もかけて翻弄されすぎて、


「本当は、だれもが、神様だった(かもしれない)」


「本当は、わたしたちは、だれもが、大切に大切に扱われていい存在だtった」


ということを それが「悪いほうに変化してしまった」のではなくて


「忘れさせられてしまった」んだと思う。


100代かけて心が疲れて 思い出せなくなってしまったんだと思う。


でも


そうか でも だけど 今日の今 わたしがここに生きているってことは


こんなに長い間 何があっても


耐えず 滅びず 子孫まで


命を 継いでくれた すべての過去の人達の営みの


結晶なんだ



わたしは。



思うと


「わたし、自己評価が低くて」

「自分に自信が持てなくて」

って


思う日があっても でも ずっとそればかりは言ってられなくない?


だって 「今ここに生きていること」って


それ自体 「神様の仕事じゃん?」って 思えるくらい すごくない?


わたし そう考えると 本当に 心が自分でふるえるの。


だって どこかで 何かが 違ったら


わたし、存在してないんだよ?


でも、今、「いる」んだよ?


「いる」こと自体 どれほどの わたし自身が「人類の歴史の結晶」なんだろうかと思う。


「僕らは神の子。」


ってある日突然 きのうまで言わなかった人が真顔で言い出したらこの人何食べちゃったんだと思う?


でも、


「そのくらい、今、生きている、この命、この自分には、

生きてるだけで、価値があるのよ?」


ということを、


わたしたちは もう ほんとうに かけねなくただの素直に、


認めちゃったほうがいいんじゃないかと思う。


それで その上で


今って、女性だから働くなとか

障害者は外を歩くなとか

そういう時代が 全部終わって


ほんとうに なんでもできるじゃん?


こうやって、書くことも、話すことだって、規制を受けないで、できるじゃん?


これは すごすぎることで

やっぱり この「自由」をわたしたちは


使い切らなきゃいけないと思う。


いや、人に「どうしなきゃ!」とかはないけど


使い切りたいと思う。


だって ほんとに 今 こんなに素敵な時代は過去には一度もないくらい


「表現が自由にできる」時代だからね。


たった70年前までは、違ったんだもん。


わたしがね、はるちゃんの本のことや、みっちさんと岡田さんのこのレポートのことや、

ブログを読んでることを書くとね

「だっこさん、だいじょうぶですか?!」

「なにか宗教に嵌っちゃったの?!」

みたいに 言う人もいるのね。


でも だれがなにを言っていてもいいんだけどね


わたし、自分が、好きと感じて本を読んだり

講演会やセミナーに行ってみたい と 思う方々って

全員に共通点があるのね。


それは

社会からタブーとされていることへ、『それって本当にタブーなの?』と

疑問を投げかけて タブーなんだからムシ、ってしないで

あえて 言葉にして語ったり

自分が人柱になって 光を当てている人なの。


前にも書いたけど


抑圧から解放へ。


闇から光へ。


不自由から自由へ。


そこに想いが 振り切れて強い人が好きなの。


そして、わたしも、


「わたしたちは、みんな、だれでも、昔は、神様だったのかもしれないよ?!」


という仮説に 共感してる。

いや、本当にそうだったと思ってる。


他者の誰かに心酔し、崇めるのではなくってね、

だれもが、

自分自身の中に、時のメッセンジャーになる素材を

生まれてきた時点ですでにぜんぶ本当は持ってきてるんだよ。


ただ、そのことを、実際に口に出したり本に書いたりするのは

共感してくれる人もいればしてくれない人もいるから 勇気がいること。


だから 多くの人が

何につけ

腹の中で、心の中で、本能で、子宮で 直観で、、、言い方はそれぞれでも、

なにか大事なことを、「本当は思っていても、思っていることを言わない。」

ということに 現代って、慣れ過ぎているけど


もっと ほんとに マジに


「生きてるだけで それ自体 わたしってすごいかもしれない」 って


わたしたちは 信じてもいいと思う。


少なくとも わたしは 信じる。

あと1000年したら


身体はなくなっても


わたしたちも 歌の神様 絵の神様 踊りの神様 本の神様


そんな風に 誰かから 語られているかもしれないよ?


だれだって いつかは 神話の主人公。


ならば そうだなあ わたしだったら


「みんなから座敷童って呼ばれている不思議な背の小さいお姫様がいたんだって」


って言われたい。


「身体の不自由なお姫さまが奥座敷の暗い部屋に日々泣き暮らしていたんだって」

ではなくってね。


お話の中に どう書かれたいか


今 それを紡いでいるわたし。


ならば 願いは この生を 楽しくありたいというだけだ。


そんな想いが 確信になった 魔法使いセミナー みっちさんコーナーなのでしたd(・v・)b