加藤修滋の娘、アヤネです。
2026年3月15日の朝、
エルムオーナー・ピアニストである加藤修滋が旅立ちました。
76歳でした。
カフェ・コンセール・エルムのブログですが、
読者の中には音楽関係の方々、教室生徒の方々が多くみえるので、今回は娘という立場からこのブログを書かせていただきます。
父は10年前に重症筋無力症を発症しました。そんな状態であっても鼻から栄養チューブをつないだまま演奏したり、指や肋骨を骨折してもテーピングやコルセットをして演奏したりと、どんな時でもピアノとともに生きてきました。
しかし3年前に大動脈解離で緊急搬送されて脳梗塞の後遺症で右半身不随の車いす生活となってからは、ピアノに触れることもできずつらい闘病生活となりました。
「エルムに行く足を失い、ピアノを弾く手を失い、歌う声を失った自分に、いったい何が残るというのか…」と苦悩の日々を送る父から、遺言を受け取ったこともあります。
まるで翼をなくした鳥のように、小さく背中を丸めて震えている父に、優しく気の利いた言葉ひとつかけれずにいた自分がふがいなく、現実から目を背けて見舞いにもいかない日が続きました。
ところが、ある日父に会いに自宅を訪れ扉の前に立った時、中から笑い声が聞こえてきました。何事かとドアをあけると、食べ物やテレビの話題で大きな口をあけて笑う父と母がいました。
「明日はこれを食べよう」「いつかそこに行こう」
現状を嘆いて涙する父の姿はなく、未来の話を口にする前向きな2人の会話を聞いてとても驚きました。
娘の目から見ても家庭を顧みずに音楽に没頭した生活をおくっていた父ですから、「音楽家=加藤修滋」以外の姿を見て動揺するとともに、母の偉大さを感じました。
音楽家としてのプライドがボロボロになっても、母が加藤修滋という一人の男性の存在意義を作り出して、父は生きることを諦めずにいてくれるのだと強く感じました。
そして、その後は教室生徒さん達へ新しい形での指導を行うようになったり、ブログを通じて情報発信をすることで、再び音楽家としての自信を持つようになったと思います。
言葉を話せない代わりに、悲しいときは眉毛を八の字にまげる……
嬉しいときはただでさえ垂れ気味な目じりをさらに垂れさせて喜ぶ……
面白いときはかろうじて動く左手で机をバンバンたたいて笑う……
ストレートな感情表現で伝える父の姿を見て、私の5歳の娘が言うのです。「先生、かわいい!」って。
そして車いすを押したり、靴下を脱がせてあげると、父はきまって孫の頭に左手をやり、優しくなでるのです。
その光景を見て私は思いました。「鳥は翼をなくしてはいない。大空を飛ぶための翼(手)が、人を優しく包み込む翼(手)に変わったのだ」と。
音楽家としてはつらい闘病生活に違いはありません、けれどもそれは加藤修滋という個人としては、妻と孫に無条件で愛された幸せな三年間だったと思うのです。
今年に入って、何度も難しい状況に陥ることがありました。そのたびに医者も驚くほどの回復を見せて、父の体は懸命に生きようとしました。
そして、意識も朦朧とする日が続いたある日、病室に呼ばれた私の横で娘が叫びました。「先生、大好き!」
ーすると、ずっと閉じたままだった目が驚くほど大きく開き、浮腫んで動かなかった左手を自分から伸ばしてきたのです。
娘も、母も、私も、必死でその手を握り返して、それが意識ある状態の最後の交流となりました。
病室で、もう反応も薄まってきている父の左手の写真を撮りました。青白く、浮腫んで、ガサガサで、血がにじむ左手。
でも、最後まで闘いぬいた立派なピアニストの手です。
孫の頭を幾度もなでてくれた、愛情あふれる祖父の手です。
そして、私の自慢の父の手です。
葬儀は家族葬で執り行いました。
アルゼンチン公演で演奏した時の音源を流して、トリアノン劇場で弾き語りをした時の写真を飾り、葬儀場はまるで加藤修滋の「ラスト・リサイタル」でした。
母が挨拶で最後に父に向ってかけた言葉、
「音楽を愛し、音楽に生き、音楽を全うした人生でしたね!
先生、あっぱれでした!!」
それを聞いて、がむしゃらに生きた父の76年の歴史の1ページ1ページが一気に輝き、すべてが救われるように感じました。わが父ながら、たくさんの愛に包まれていることが羨ましい気持ちになりました。
ピアニストとして、訳詞家として、作詞家として、作曲家として、歌手として、文化人として、講師として、経営者として、加藤ハツ館長の自慢の一人息子として、夫として、父として、祖父として。
いただいたすべての愛に感謝しています。
ありがとうございました。
[2020.8.20お食い初め]















