先日、カフェで文語訳(大正訳)聖書を読んだ後、元訳聖書のことを考えた。

 

元訳聖書は国内最初の翻訳で1887年に完成されたものです。

日本人の協力者はいたものの、宣教師が中心となってつくられたものなので、誤訳も多かったそうです。

 

この頃(明治)は日本の書き言葉自体がまだ定まってなかったそうで。

そういう中で外国人が聖書の翻訳ってかなり大変だったでしょうね。

 

宣教師は翻訳に携わるとき「誰でもわかる優しい文体」を目指していたようですが、日本の学者さんたちは

「格調の高い漢文風」を求めていたとのことです。

考えが違うから何度も時間をかけて話し合ったことでしょう。

 

たくさんの苦労を乗り越えて完成された元訳聖書ですが、結構批判された。

「日本語らしくない文体」とか「未熟な日本語、無能な宣教師」とか、、、、

それで、「改訳すべきだ」という声も多かったのでした。

 

後に翻訳された文語訳(大正訳)は評判が良かった。

でも、元訳があったからこそ、文語訳を生み出すことが出来たのではと思います。

 

ちなみに旧約聖書にある詩篇はとても素晴らしいと絶賛されたそうです。

 

すごく時間をかけて、お金もかけて、たくさん揉めて、苦労して頑張っても批判をされてしまうのって辛いなぁ。

だからって、悪いところに目を向けず、良い評価だけするのはダメだけど。

 

私がその時の宣教師だったら「それなら、あんたたちでやれば」と切れてしまうでしょう。

ちょっと批判されるとすぐに怒る(すぐ傷つく( ̄▽ ̄;))

そうすると周りの人はあんまり批判しなくなる。

そうすると良くない事柄に気が付かなくなるから、悪い所を改善できない、、

その結果、、良いものをつくり出すことができなくなる・・・

 

あるいは批判を恐れ、チャレンジしなくなったりもするだろうし、、、

 

自分の弱さを感じてしまう

 

弱さに負けたくないなぁ

そういう所を乗り越えてチャレンジしたいなぁ

 

絶対にこれをしたいという強い気持ちを持ちがあればね・・・

宣教師たちはそうだったからできたんでしょうね。

 

日本人にイエス様のことを知ってほしいという強い気持ち

それがあったから、途中で諦めることもなかったのでしょう。

 

ある学者さんは批判しながらも「それでも完成させたことは評価できる」と言った。

 

私は何でも中途半端。

彼らのような気持が欲しい